大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

名古屋高等裁判所 昭和59年(ネ)447号 判決

控訴人の住所、氏名 別紙控訴人及び請求金目録の住所、氏名のとおり

右訴訟代理人弁護士 小林浩平

同 下村文彦

同 石垣智康

同 宮下明弘

同 小川秀史郎

同 宮下啓子

同 山田裕四

同 高橋郁雄

《住所省略》

被控訴人 国

右代表者法務大臣 後藤正夫

右訴訟代理人弁護士 本山亨

同 伊藤好之

右指定代理人 深見敏正

〈ほか二四名〉

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  控訴人ら

1  原判決中、控訴人らと被控訴人とに関する部分を取消す。

2  被控訴人は、控訴人らに対してそれぞれ本判決添付別紙控訴人及び請求金目録の各控訴人名下記載の金員及びこれに対する昭和五一年九月一二日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は第一、二審とも控訴人の負担とする。

4  第2項につき仮執行宣言

二  被控訴人

主文同旨の判決

第二当事者の主張

当事者双方の事実上、法律上の主張並びに証拠の関係は、以下のとおり付加訂正する他は、原判決事実摘示(但し、控訴人らと被控訴人との関係部分に限る。)と同一であるからこれを引用する。

(原判決の訂正)

一  原判決C―8丁裏一一行目、同9丁表五行目、同13丁表二行目、同15丁表四行目の各「rd」をそれぞれ「γd」と訂正し、K―1丁裏一一行目の冒頭の「六年)」とあるのを「八年)」と、同K―2丁裏五行目の「約一二〇キロメートル」とあるのを「約三〇キロメートル」と、それぞれ訂正する。

二  《省略》

(控訴人らの主張)

一  河川管理の瑕疵の推定について

1 未改修堤防と河川管理の瑕疵の推定

原判決は、本件堤防は工事実施基本計画に基づく改修が完了していない堤防であって、このような未完成堤防については、工事実施基本計画上当該堤防に予定された設計外力に耐えられるようには出来上がっていないことが明らかであるとし、計画高水位以下の水位の洪水によって破堤したからといって河川管理の瑕疵を事実上推定することはできないとした。しかしながら、未完成堤防といっても、本件のように完成堤防に近いものから堤防といえない程度のものまで千差万別であって、未完成堤防を全て区別することなく同一に扱うのは誤りである。工事実施基本計画は長い年月をかけて実施されていくものであって、工事の開始から工事の完了まで現実に堤防は存在し、改修中においても一定の外力に対する安全性が考えられているのである。よって、工事実施基本計画による工事が完了するまでは、現実に存在する堤防がいかなる外力を予測し、いかなる外力に耐えうるものであるかを問題とすべきであり、計画そのものの外力ではない。

控訴人らは、現実に存在する堤防が備えるべき安全性は計画高水位規模の洪水という外力に対する安全性であると主張するものである。なぜなら、我が国における築堤は主として越流による破堤を防ぐ事を目的として、高水工法がとられており、越流していない洪水または少なくとも計画高水位以下の洪水に対して安全であるように築堤されているはずであるからであり、このことは、本件堤防のような総体的にみて完成度の高いものについては、当然のことである。要するに、計画高水位以下の洪水による破堤に対しては、完成堤防と未改修堤防とで、河川管理の瑕疵の推定を異にすることはおかしいのであって、本件においては河川管理の瑕疵が推定されるのである。

2 堤防設計の考え方について

三木意見書が、日本の洪水の特性として、短期集中型が多いと指摘しているのは理解できないわけではない。しかしながら、だからといって、堤防が単に一過性の洪水に対する安全性のみを考慮して築堤されており、長時間の洪水に対する安全性は全く考慮外であったというわけではない。建設省の「河川砂防技術基準(案)計画編」にも、漏水防止加工において「高水の継続時間等を考慮」することとなっているし、土木工学ハンドブックも「洪水継続時間の長い大河川や堤体土の透水係数が大きい場合には、計画高水位に対する定常(洪水の継続時間を無限)として扱う」とされているのである。

日本の重要河川などで経験的に設定している断面及び一般的に活用されている堤体土は、長時間の降雨、洪水に対しても特別の欠陥が存在しない以上安全を確保出来るようになっていたはずであり、本件堤防についても、被控訴人の主張によっても、その主張するような異常な降雨、洪水においてすら、難透水性層の不連続さえなければ、破堤にまではいたらなかったのである。

そもそも、一般に堤防設計にあたっては、まず計画高水流量から余裕高を考慮して堤防の高さが決定され、次いで天端幅、法勾配、小段数、小段幅が決められる。標準的な堤防断面は、堤防の高さが高くなればなるほど、必然的に堤防幅はそれ以上の比率で大きくなるようになっているのである。

我が国のこれまでの築堤計画では、高さを確保すれば同時に浸透作用に対する安全度も確保できることから、特に浸透作用については問題とされなかったが、堤防のかさ上げ工事は、高水位に対する安全度だけではなく浸透作用に対しても安全性を増すことになったのである。少なくとも、今までの河川工学には被控訴人が主張するような一過性の洪水を想定した設計は見当らない。

仮に、三木意見書のように河川管理者が短時間の一過性洪水に対してしか堤防の安全性を保障しないというのであれば、まず防災上、住民に対して各河川の計画洪水継続時間を明確に公表する責任を生じるし、各市町村の水防計画書には、一定の継続時間を超過した洪水に対して流域全部を対象とした避難対策を明確にする責任も生じる。しかし、こうした防災措置上の明示はいままで見たこともない。

3 長良川における基本高水の決定及び計画降雨について

原判決は、本件降雨の規模を長良川流域における既往の降雨との関係で比較検討するにとどめているが、木曽三川のような流域の特殊な地形を考慮すれば、木曾川、揖斐川における過去の降雨実績を無視することは不合理、不十分である。また、洪水についても水位記録だけでは比較が出来ないことを理由として揖斐川の明治二九年洪水を検討の対象から外してしまったが、比較が出来ないことと本件降雨が異常か否かとは結びつくものではなく、堤防の設計上考慮しなくてよいことにならないのは当然である。

被控訴人の河川管理にも以上の観点が欠如していて、揖斐川の明治二九年洪水、木曾川の昭和三六年洪水を考慮しておらず、そのため、結果的に年超過確率一〇〇ないし二〇〇年の降雨、洪水を防御の対象から外してしまったことになる。したがって、長良川における防御対象洪水は同種同規模の河川におけるそれと比較しても劣っているものといわざるをえない。

なお、原判決は、実際に決定された計画降雨をみると、降雨の継続時間が二日を上回る例はないことから、防御対象洪水の継続時間はせいぜい二日程度であるとしているが、計画降雨の継続時間と洪水の継続時間との間にはなんら因果関係がなく、そのようにいうことは誤りである。

二  破堤原因(丸池原因説)の補充

1 本件における破壊(破堤)と先駆現象(前兆)について

一般に破壊には二つのタイプがあり、その一は外力が強度を上回って起きる破壊(以下「外力破壊」という。)であり、今一つは、強度以下の外力の繰返しで、次第に強度が低下し、強度がやがて外力を下回り発生する破壊(以下「疲労破壊」という。)であり、その破壊は、外力の大きさとその繰返しの回数によって支配される。

そして、疲労破壊の場合には、一回の外力毎に弱点の存在箇所に非可逆的損傷(以下これを「前兆」という。)が残り、そのために強度の低下が累積増大していく。前兆は、顕著な弱点があれば、必ずその弱点中の、中でも最も条件の悪いところから始り、次第に弱点全体に拡大し(しかし弱点の存在範囲内に止まり)、やがて破壊に到達する。特に弱点がなくとも、堤防のような土の構造物は均一には造られておらず、従って、必ず小規模ながら相対的に条件の悪いところが存在し、外力がある程度大きくなるとこういうところにも損傷は発生するが(このようにして生じた損傷自体が弱点である。)、小さな損傷でも損傷が入れば、それは断面的不連続点を形成することとなり、そこに応力が集中し、損傷は更に拡大していき、不連続性もそれに伴って大きくなり、放置すれば遂には破壊に至るであろう。

前兆、破堤に限らず、一般に破壊現象は、いずれも、材料、断面、構造的な不連続箇所を好み、大規模な不連続性(弱点)の中に小規模な不連続性(弱点)が含まれていれば、前兆は、弱点中の弱点から始ることになる。大規模な不連続性がなく、更に小規模な不連続性が目視できないほど小さいとき、それらは不均質性とよばれ、堤防の不可避な不均質性により不特定多数点に生ずる破損はこの不均質性によって起こる。

本件災害当日に発見された表法面、裏法面のひびわれは、いずれも天端肩や小段肩等の断面急変部に発生している。最初の前兆が表われた水際部分は、堤体本体とは別に、異なった時期に、おそらくは異なった材料を用い、つけ足された部分、すなわち堤体本体とは材料、断面、構造的に不連続性を有していた部分である。一次すべりも生成過程を異にした堤体砂質土と池底粘性土の境界面、すなわち材料、構造的不連続面で発生する必然性があった。そもそも丸池の存在自体が堤防沿いの一連の堤体中で、大規模な構造的不連続性を作り上げていた。前兆現象がこの不連続性(すなわち弱点)が存在する範囲に限定的に発生していたのは当然のことである。

本件破堤は、前記の分類によれば疲労破壊であり、本件破堤に至るまでの間に、多くの前兆現象が見られたのである。

(一) 新堤築堤工事中及びその後まもなくの時期に見られた前兆現象

新堤築堤工事中二回にわたって土運搬車の転覆事故が発生したが、その原因は、旧堤から池に約四、五間土を撒き出したとき、丸池の幅(その後一部埋立てられる前であり、約一〇五メートル程あった。)いっぱいにひびわれが生じ、その箇所より池側の撒出土砂が、池底のナメ泥からすべりだしたのである。そして、昭和六、七年ころ、丸池の幅一杯に、丸池内に撒出した部分が「ずった」ため、その修復が行なわれている。これは、以後の航空写真で観察される堤体丸池沿い部分の水没現象のはしりであったと思われる。

(二) 航空写真から判読される前兆現象

(1) 昭和二二年一一月二七日撮影の航空写真

「犬走り」(控訴人らの主張する「犬走り」部分は、本判決添付の別紙図表Hの1(以下、本判決において引用した図、表または図表の内、「原判決の」との断り書きがないものは、すべて本判決添付の別紙図表である。)に「元犬走り位置」とある部分であり、以下、同部分を「犬走り」という。)は丸池の幅一〇五メートルに沿って幅約六メートルある。同部分は、下流側で水際線が若干堤防側に後退している状況が見られるが、ほぼ新堤築堤工事の完了当時の形状を留めていると考えられ、水田として利用されている。この段階では、前記のとおり丸池の下流側(昭和三六年に埋立てられた六六八番三の土地)部分の「犬走り」に一部欠損らしきものが見られるが明白ではない。

(2) 昭和三六年五月六日撮影の航空写真

「犬走り」の幅は約四・五メートルで昭和二二年より約一・五メートル後退しており、この頃埋立工事中の六六八番二、三の部分が約三メートルと最も後退が激しい。「犬走り」は、四枚の田に区切られているが、上流端から三、四枚目の区画の田に対応する「犬走り」には、池沿いに走る小路の幅をすべり頂点幅とする薄層すべりによるものと思われる幅約八〇センチメートルの比較的新しい断面欠損が見られ、「犬走り」の幅の減少も同様のすべりによるものと思われる。また天端道路の図表Hの1の⑬部分付近に不規則な形で横断する線状痕が見られるが、この位置は本件破堤時に天端表肩道路標識付近に見られた空洞の位置と一致することから、同じ原因で生じたクラックであると推定できる。

(3) 昭和三六年一〇月撮影の航空写真

「犬走り」の田を四つの区画に区切っていた道はこの段階では洗掘されて水面下にある。

図表Hの2の⑯の位置、すなわち、上流側二五ないし三〇メートルの区間に対応する裏法小段の付け根に沿った位置に、長さ約二〇メートル、幅約一・五メートルの白い物体(池側で約一メートル立上がっている。)と約二〇本の丸い棒状の物体が観察されるところ、その箇所の裏小段(図表Hの2の⑱部分)では、この白い物体の上流側の位置まで車の軌跡が到達し、その下流側では車が方向転換したと思われる屈曲部が見られることからして、これは昭和三六年六月二五日ないし二八日の洪水による損傷の修復のために杭を一列に打ち、その川側にプラスチックのニット製の白っぽい土のうを置いたものと推測される。

(4) 昭和四〇年六月八日撮影の航空写真

この段階では、「犬走り」の田は水深がより深くなっており、田を区画していた小道は田より低い溝(深さ三〇センチメートル、幅一二〇センチメートル)に変っている。上流より三枚目の田には池への土砂の流下跡が白くみえる。昭和三六年航空写真に見られた薄層すべりはほぼ丸池の幅一杯に拡大しており、このため水際線は昭和三六年より約一メートル後退し、「犬走り」の幅は約三・五メートルとなっている。右すべりは、完全にはすべり切らず、すべった土塊は途中で止っているので、その部分の水深は浅く、やや白っぽく写っている。

池の下流側に天端から堤外側に下る道路が新設されているが、本件破堤時に表層すべりを生じた天端の取り付け部が、変状を示す黒い色調の長方形として既に識別できる。

(5) 昭和四九年六月九日撮影の航空写真

前段階からの間に池のカイドリが行なわれ、丸池の急激な水面低下とそれに伴う残留水圧が原因と考えられる変状が発生した。「犬走り」は薄層すべりにより完全に水をかぶっている。最上流端から下流約二五メートルにかけての範囲では水深が深いが、それ以外の部分ではすべりが完全に起こらず途中で止っているため水深は浅い。また、「犬走り」を横切り池面に達する幅約三〇センチメートルの土砂の流下跡が四箇所見られる。

(6) 昭和五〇年九月一〇日撮影の航空写真

昭和五〇年九月撮影の写真と昭和三六年五月撮影の写真からそれぞれ図化した堤防断面図(図表F)を比較すると、昭和五〇年段階では丸池の水位は約二八センチメートル高くなっている。

この写真によると、昭和四九年時に完全に水没した最上流側の二五メートルの「犬走り」部分(図表Hの1の⑭部分)にはごみが投入され、葦と共存している。その他の「犬走り」部分は葦で覆われている(図表Hの1の⑥部分)か、あるいは水辺は葦で覆われ堤体に近いところでは草で覆われている(図表Hの1の⑮、⑪部分)かであるところ、右図表Hの1の⑥、⑭の部分は全て水面下に没していると推察され、⑮の部分は雨水により侵蝕が進行中で侵蝕された土砂が葦をかきわけ図表Hの1の⑤の部分にデルタ状に堆積している。葦が生えている部分にはこのような箇所が三箇所あり、その中の最大のものの切れ込みは図表Hの1の⑫の部分で切れ込みの深さは約三メートルで、そこに水面が見られる。少なくとも、この切れ込みの線の最も奥の位置に対応する線までは水面であり、これを「犬走り」の水際線とすると昭和四〇年の線よりさらに二メートル後退した線となり、犬走りの幅は一・五メートルとなる。

また、図表Hの1の⑩の線を見れば明らかなように、この段階では堤体欠損は堤体にまで及んでおり、堤体法尻部の後退は平均一・五メートル程度であり、これと「犬走り」部分と合せ幅三メートルの「犬走り」が存在するように見える。堤体に平均一・五メートルくいこんだすべりの最上端は裏小段と犬走りの中間の高さ(図表Hの1の②の部分)まで達しており、そのすべりの厚さは上部で約二〇センチメートル、犬走り付近では約四〇センチメートルである。なお、裏小段から下に降りる取付け道路(図表Hの1の⑨部分)は図表Hの1の②の部分と同じ高さの辺りからその痕跡が無くなっており、このことからするとこの部分の下部でもすべりがあり、道路の下部が崩されているものと推測される。

次に、天端道路表の肩の道路標識付近には黒い影とその中に二本の棒(図表Hの1の③部分)、そこから堤防外側に伸びる裸地(図表Hの1の④部分)が見えるが、これは旧丸池の盛土の沈下で生じたひびわれとその補修の跡であり、これが本件破堤の二次すべりの上端と破堤の端を規定したものである。天端の道路の中央分離線の消し残り(図表Hの1の⑬部分)が右場所でクラックの修理が行なわれたことの証拠である。

(三) 破堤時に見られた前兆

(1) 本件洪水中に、丸池上流端の天端道路の表法肩から舗装下に伸びる空洞が発見され、またそこから表法面を水面まで下る雨裂といわれる現象が生じた。

(2) 裏小段に丸池の幅一杯に表われたひびわれは、一次すべりの上端線を規定した。右ひびわれは、弱点存在区間(丸池区間)の、最も条件の悪いところ(丸池の最深部分)に対応する区間で始り、下流側に発展し、弱点存在区間一杯に広がって止った。

(3) 最後の前兆が一次すべり(及びそれに続く、二次すべりをも含む大小のすべり)である。これらのすべりも上流側から始り、下流側に拡大していったが、弱点の範囲を越えなかった。

(4) そして、破堤が始ったが、破堤も弱点の範囲(丸池区間)を越えなかった。

2 堤体形状の経年変化とそれに伴う安全率の低下の計算

松野意見書は、前記航空写真の判読により見られる堤体の丸池沿い部分の経年変化をもとに、堤体の安全率の低下を計算したものである。

松野意見書の計算の方法は次のとおりである。

(一) 堤体断面、特に堤体丸池沿い部分及び地底の形状は、図表F及び図表Qの1のとおりであり、これは前記航空写真に基づく経年変化により、池底については、堤体土砂の水中安息角である三二度、ただし、池底面と接する一定の部分では池底の土の特性を取込んでいるものとして二〇度としたものである。

被控訴人は主張の幅の平場が存在したと主張し、その根拠のひとつとして、丸池内の葦が生育している範囲の内側に生えている植物はヒシであり、ヒシの群生の生育限界は水深二メートル以下であるから、当該部分は水深二メートル以下であるとする。

しかしながら、昭和五〇年撮影の航空写真に写っている植物がヒシであるか否かは必ずしも明らかではなく、かりにヒシであるとしても、ヒシの生育水深については一義的に決定することができず、水温、透明度、栄養状態、池底の土質など様々な要因が関係しており、現に三ないし四メートルの水深で生育していた例の報告はいくらでもある。更にヒシには分枝という現象があり、一旦葉が水面に到達すると次々に枝別れして放射状に葉を多数浮かせ、群生を拡大する。ヒシの茎の長さは丸池の近くで採取したものでも五メートル以上もあり、その池では水深四メートルの地点まで群生域が及んでいた。文献によれば茎の長さは一九メートルに達したものもあるとの報告例がある。従って、仮にヒシに一定の生育限界水深があるとしても、浮葉の及んでいる地点の直下の水深が限界水深以下であるとは到底いい得ないのである。

(二) すべり面の位置と形状

すべり面は、図表Qの1のとおりであり、実際に起こった現象を忠実に表現する形状、すなわち、裏小段ひびわれ発生点をすべりの頂点とし、ここでの接線勾配が鉛直でかつ池底面に接する円弧と、池底線で構成される非円形複合曲線を採用したが、すべり上端と池底線に接する区間では仮想上の円弧形状とした。

裏小段のひびわれは鉛直に起きており、また一次すべりの際すべりの上端位置にいた人は鉛直に落下していく感じであったといっていることからも、すべりの頂点での接線勾配が鉛直であることとしたのである。

また、すべりが池底線を通ったものであることは、次の事実から明らかである。すなわち、池底粘性土の粘着力は犬走り法尻部付近では事実上ゼロであり、一番深い位置でも二t/m2以上にはなりえず最もすべりやすく材料的不連続面であったことや、破堤の際、裏小段より下の部分がそのままの形をもって池中央まで移動しているが、これは円弧すべり面上の土塊部分が池底線にくずれ落ち、図表Qの3のようにC'部分の土塊がスムーズに池底面をすべって池中央付近まで滑動したと解釈するのが相当であることから明らかである。

(三) 浸潤線の位置と形状

鵜飼鑑定に示す想定されるもっとも高い位置の浸潤線の位置と形状を採用すべきである。そして、右浸潤線の位置と形状は、新堤築堤工事の際土運搬車の軌道下に敷いたバラストがそのまま新堤内に埋め込まれ、これを含む砂、砂利層が堤防表法面に開口しており、同部分は超透水性(右層の長さを八メートルとすると一五分以内に末端まで到達するほどの速さである。)であって、多量の河川水が堤体内に浸透したはずであり、その末端まで到達した浸透水はその後は容易に浸透しない(一時間に五センチメートル程度)から、浸潤線は途中までは高くその後は急に降下するのである。なお、破堤地点では、軌道は天端あるいはその堤内側の肩を幅二・七メートル、高さ一・五メートルほど切下げて敷設されており、また旧堤は新堤内に収まらず堤外側にはみ出したため、旧天端(幅約五メートル)の約半分が削られたが、堤内側に土が撒き出されたため、七メートル近くになっていたと推測される。これらからすると右超透水性層の長さは八メートルくらいあったと推定されるのである。

(四) 土質定数、計算方法等

池底粘性土の粘着力を堤体による圧密の度合いを考慮し〇ないし二t/m2とし、堤体土の透水係数について新潟大学で実施した粒度試験結果より求まる有効粒径から推定した3×10-4cm/secを採用した他は、山口鑑定の数値、すなわち、粘着力C'(堤体土は〇・三ないし〇・四t/m2、天端直下の上部粘性土は五t/m2)、堤体土の内部摩擦角φ'は三三度、湿潤単位体積重量は一・八六t/m3、透水性基礎地盤の透水係数は使用しない、過剰間隙水圧は無視する、以上を採用し、簡易ヤンプー法によって安全率を計算した。

以上の方法によってなした計算の結果は図表Qの2のとおりである。

これによれば、本件破堤の前段階(ひびわれが表われた段階)で安全率が一より小さい値となる。しかしながら、現象を規定した全ての要素をもれなく拾い上げて解析に加えたり、安全率に関係する変数の全てを絶対的に正しい値と評価することも事実上不可能である。すなわち、安全率の計算のもとになる各数値にはちらばりや洩れがあることが避けられないし、計算式自体完全ではないのであるから、計算で得られる安全率はあくまでも相対的にとらえるべきであり、特に着目した変数の変化による安全率の変動を相対的に比較し、その変数の効果を考察するのが正しい。右見地に立って、前記計算効果を考察すると、丸池を残存させたことにより、堤防完成後、自然的、人為的危険イベントの影響を受け、堤体の安全率は経年低下し、破堤に至ったこと、しかし、もし池を埋め戻しておけば破堤は起こらなかったであろうことが明らかである。

池を埋め戻した場合の効果は、昭和三六年ころまでに埋められた旧丸池の下流部分については、埋立て後はその後の丸池について見られたような前兆現象が皆無であったし、本件破堤も右部分には及ばなかったことにより明らかである。

三  破堤原因(パイピング破堤)の補充

本件破堤はパイピングによるものであり、これを防止するためには丸池の埋め戻し、堤外側に鋼矢板を打つ等の透水経路遮断対策等の局所的な対応をすれば足りたものであり、一般的な河川改修計画に基づく改修事業に伴う財政的、技術的、時間的、社会的制約はまったく問題とならない。

なお、本件は後記大東水害訴訟最高裁判決の瑕疵判断の基準にあてはめれば、「早期の改修工事を施工しなければならないという特段の事由が存在していた場合」に該当するものであり、被控訴人には本件堤防の管理の瑕疵があった。

原判決は、三木意見書、三木墨俣証言に依拠して、パイピング破堤の可能性を否定した。しかしながら、三木意見書、三木墨俣証言、三木安八証言(以下これらをまとめて「三木見解」という。)には誤りがあり、到底パイピング破堤を否定し得るものではなく、パイピング破堤の可能性は山口見解によって定量的にも証明された。

1 ガマの発生条件の有無を検討するための限界動水勾配の方法は、水頭差/層厚(鉛直長さ)であるのに、三木見解は水頭差/堤防幅(水平長さ)としており、根本的に誤っている。

2 三木見解は、ジャスティンの式に基づいて土の限界流速を計算し、本件ではガマの流速はこれより小さく土粒子が動くことはないとしているが、ジャスティンの式は抗力係数を二と一定にしたものであって、粒径が〇・五ミリメートル程度の粗砂にのみ適用できる式であり、それより小さい粒径の砂には適用できない不適切な式である。すなわち、抗力係数は一定ではなく、レイノルズ数(粒径に比例する。)によって変化し、レイノルズ数が四〇より小さくなると対数関数的に著しく大きくなるのである。

しかも、ジャスティンの式は単一粒子が上向き流れで浮遊し始める流速を求める式であって、無数のそして粒径も一定していない土粒子からなる現実の土にどこまで適用できるかは疑問であり、粒径の分布の幅が比較的狭い土について行なわれた久保田、田中の実験によれば、ジャスティンの式の値に較べて約一〇〇分の一という遙かに遅い速度でも動くという結果がでており、一般に混合粒径の土では限界流速は遅いということができる。この点について三木見解は逆の結果になるというが正当ではない。

本件破堤箇所付近の地盤の砂質土の粒径は粒度分布から〇・〇五から〇・〇四ミリメートルとみるべきところ、その限界流速は〇・〇二ないし〇・〇四二cm/secである。

3 三木見解では、川側や堤体下全体の平均流速と限界流速を比較して土粒子が動くことはないというが、ガマ孔ができると、浸透水の水圧は減少するが、浸透水の流線がガマ孔に集中し、付近の動水勾配が局所的に大きくなるから、ガマ孔付近の流速は川側や堤体下全体の平均流速より速くなる。

ガマを通る水の流速は別紙計算式集の式3によって算出できるところ、本件においては、ガマ孔付近の流速は〇・一cm/secないし五・七cm/secとなり、平均流速〇・〇二cm/secの五ないし二八五倍となるのであり、前記限界流速を二・五倍以上も上回っている。これによれば、土粒子が移動し、パイピング孔が発生、進行することとなる。

なお、限界動水勾配の式において動水勾配の微分式を用いる考え方(これは、浸透水のパイピング孔への出口での局所的な動水勾配を用いる考え方である。)によれば、パイピング孔への出口での最小流速を前記の〇・一cm/secとし、透水性地盤の透水係数を6×10-2cm/secとすると、最小流速に対する動水勾配は一・三以上になり、限界動水勾配の〇・五ないし一より大きくなり、これからしてもパイピングが生じることとなる。

4 丸池の存在がパイピングの発生条件に関係する要因は、浸透経路長の短縮のほか、動水勾配が小さくなる、すなわち、堤内側に厚さ七メートルの上部粘性土層(難透水性)があるとした場合、池の深さを五メートルとすると、池の部分では上部粘性土層(難透水性)の厚さが二メートルしかなく、その動水勾配は池がない場合と比べて三・五倍にもなるのであり、パイピングが発生しやすくなるのである。

5 次に、三木見解では、いったんガマが噴出しても、その後は流線は地盤中を平行に流れる流線になって、極めて遅くなるから、次々と土粒子を流すようなことはないというのであるが、右見解は本件破堤箇所付近に見られるガマの実態、すなわち、高水位が続く期間中土砂を含む水が流出し続けることと符合しないし、理論上は、ガマが噴出すると、ガマ部の水圧は減少するが、すり鉢状の水頭分布(ガマの直下の水頭が低くなり周辺が高いため、ガマ付近の水頭線はガマ直下をすり鉢の底とし、すり鉢を逆にした形になる。)の坂を転がるようにして水の流れが起こり、その速さは最小値をとっても〇・一cm/secであって、大きいときはその数百倍にもなるのである。

6 三木見解は、パイピング破堤であれば堤防横断方向にパイピングの空洞の大きさに対応する亀裂や溝状の陥没が生じるが、本件では縦断方向に長い亀裂が生じたことから、パイピング破堤の可能性はないという。

しかしながら、パイピングが生じた場合にも、これを取巻く土層にはアーチ作用が働く結果、上部の土層は弓状の弾性変位を示すのみで地表面の破壊を起こすことはない。

本件破堤箇所の地盤内の透水性層は一〇ないし六五パーセント前後のシルトや粘土分を含みその粘着力は飽和時にも消失しないから安定したアーチ作用を十分期待でき、深さ四メートルに生じた直径三二センチメートルの孔は地表の陥没を生じさせることなく安定して径を保ち得るのであり、深さが大となれば安定である孔の径もまた大となる。また、パイピング孔の土被りの厚さが大きいほど、また粘着力が大きいほどパイピングによる地表面の沈下量は小さく、安定である孔の直径は大きくなる。加えて、本件破堤箇所には人工構造物である旧堤が存在した。従って、パイピングがある程度進行しパイピング孔が拡大しても旧堤のルーフィング作用で孔の天井部は支えられ陥没は起きず大きな孔が安定的に存在し得る。

本件破堤箇所付近には、丸池内の大ガマの他、旧ひょうたん池の水中ガマや北側の池沿いの道の堤脚部等にもガマが存在したことが確認されており、このことからすると、パイピング孔は単一ではなく、丸池内にも多数発生していたことを示唆するものである。

ガマが比較的狭い範囲内に多数発生するということは、地盤中にパイピング孔の直径に大小の差こそあれ網目状にパイピングが発達するということであり、そうするとパイピングの影響は堤防の縦断方向に広がりをもった範囲に、帯状の異常現象領域という形で表われることとなる。特に旧堤の存在によりルーフィング作用が働くような場合にはパイピングの断面は円形ではなく両横に広がって偏平な形状をもつことになる。

本件破堤箇所では、堤防裏小段上までの部分は固い旧堤の上に乗っているのに対し、これより堤内側の法先部分は池を埋立てた土砂の上に乗っていて、小段から下の部分は沈下を起こしており、小段から上の部分に引きずり上げて貰うような力学的条件にあった。この様な条件の下でパイピングが網目状に発達し、これが激化して法先部分の沈下が進行すれば、裏小段を境として裏小段部分より上の引きずり上げる力(せん断力)が土の強度を超え、裏小段に平行に、すなわち堤防の縦断方向に亀裂が入ることとなるのである。

更に本件破堤箇所付近では旧堤が堤外側に湾曲した形態、いわば漏斗状となっていて、下部で生じた沈下等が堤防の縦断方向へ及ぼす影響は大となる。

パイピング破堤の損傷形態はすべり破壊であって、浸潤によるものかパイピングによるものかとは関係なく、すべりが生じるときは、その前兆現象としてすべりの上縁部で縦方向の亀裂が入るのであり、本件において見られた亀裂の状況はパイピング破堤であることとは矛盾しない。現に、本件破堤時に発生した旧薬師池付近のガマによると思われる亀裂も堤防の天端に堤防と縦断方向に発生し、段差も生じていたのである。

7 三木見解は、パイピング孔の出口の痕跡が見られないことをもってパイピングは存在しなかったという。しかしながら、破堤後の写真からパイピング孔が無いと判断するのは不可能であり、そもそも、パイピング破堤による破壊は徹底的であって孔がそのまま残っていることはありえず、仮に残っているとしても孔には砂がルーズに詰まっているうえ、堆積した砂に覆い隠されているはずであり、また復旧工事によって取除かれたり埋められた可能性もあって、その痕跡を認めるのは困難である。三木は国土研報告書がパイピング孔が存在したというところに粘性土が成層状態で堆積していたことをもパイピングの否定の根拠とするが、その位置について誤解しており、国土研報告書がパイピング孔が存在したというところは堤防天端裏法肩から西に四〇メートル、図表Gの1の7測線と8測線の中間であり、その部分には直径八メートル前後の凹みがあり、この部分をパイピング孔の出口付近が陥没、流失した跡と考えることができないわけではない。

8 山口の見解によれば、パイピングの発生が本件堤防の安定性に大きな影響を及ぼしていることは間違いがなく、その影響を考慮すると、丸池の埋め戻しをしないときは安全率は〇・五であって破堤してしまうが、埋め戻しをすると安全率は一八・二となって全く破堤の心配はないということとなる(図表Oの1ないし4参照)。

四  浸潤破堤説に対する控訴人らの反論

被控訴人は、安定解析の結果、本件破堤が浸潤破堤であることが裏付けられたと主張する。しかしながら、被控訴人の安定解析には、次のような誤りがあり、正しい安定解析を行ったならば、本件においては破堤しない結果となる。

1 透水係数について

被控訴人の設定した透水係数は、現場試験、室内試験の値の内の最大値(もっとも、その計算には間違いがあり、正しい数値によれば、室内試験結果の最大値の二倍である。)であり、かなり高めである。また、被控訴人は試験値よりも概略値に重きをおき、本件堤体土の土(砂質ローム)は微細砂に該当するのでそれの概略値によったというが、本件堤体土に微細砂が含まれる割合は一〇パーセント前後にすぎず、微細砂とはいえず、その概略値によることは誤りである。

2 せん断強度定数決定の誤り

(一) せん断強度定数につき、被控訴人のデータの整理は不正確である。すなわち、被控訴人は、最小二乗法によらず、かなりの誤差がはいってくることが土質工学上の常識である目視法によっているし、しかも、目視法によるモール円の共通接線を引く場合には、接線より下にあるモール円の数とそれより上にあるモール円の数が大体同じになるように引くのが妥当であるにもかかわらず、被控訴人の線の引き方は極めて不正確である。

(二) 堤体土についてCD試験は容易に実行でき、データも出そろっているのにこれを無視して試験の値のみを用いており、不正確な処理である。CD試験値の粘着力C'が、試験値よりかなり高めにでているために粘着力C'の値を低くするために意図的に無視したものといわざるをえない。

(三) 土質工学の常識では、初期乾燥密度γodに対応して強度定数が決定されるべきところ、被控訴人は粘着力C'を低く決定するため、あえてせん断密度γcdに対応させて決定している。

3 計算方法の選択の誤り

事後的安定解析は、算出された安全率が一・〇を切るか否かということから破壊の原因を究明するのであって、できる限り精確性が要求されるから、安定計算の計算式自体についても精度の高い計算結果の得られるものを選択して、精確性の高い安全率を算出しなければ、意味のある解析とならない。被控訴人は安定計算に簡便法(別紙計算式集の式1)を用いたが、簡便法による計算結果は精密解法(一般分割法)による計算結果に比較して約五ないし一五パーセント低い値となるという一般的傾向があり、このことは土質工学界や土木工学界では共通の認識である。また、間隙水圧が大きくなるに従って、あるいはすべり円が深ければ間隙水圧がなくても大きな誤差を生ずることもあるといわれており、事後的解析に簡便法を用いることは、計算結果に特有の過小値の算出をもたらし、本来破堤しない場合にも安定解析上は破堤するという結果を生じさせる。よって、事後的解析において簡便法を用いるのは適当ではなく、被控訴人が簡便法による安定解析の結果安全率が一以下となったと結論するのは破堤の原因を明らかにしたことにはならない。

4 正しい安定計算の結果

堤体土についての応用地質調査事務所の行なった三軸圧縮試験結果であるCD、試験の値から、最小二乗法により粘着力C'、内部摩擦角φ'をそれぞれ求め(図表Kの1)、これをプロットした図表Kの3からせん断前密度γcdに対応させた正しい強度定数を求めると、粘着力C'は〇・三ないし〇・四t/m2、内部摩擦角φ'は三三度となる。なお、初期乾燥密度γodに対応させて、最小二乗法(回帰式は各図表記載のとおりである。)により整理した場合の粘着力C'、内部摩擦角φ'は、図表Kの4ないし8のとおりであり、各図表の初期乾燥密度γod一・三八t/m3における各値から、標準誤差ηの二分の一を引いて多少粘着力C'、内部摩擦角φ'を低目に評価しても粘着力C'は〇・三ないし〇・七t/m2、内部摩擦角φ'は三三度となる。

右強度定数を用いて精密解法(簡易ビショップ法、別紙計算式集の式2)で安定計算すると(透水係数その他の数値は被控訴人主張の数値によったものである。)、その安全率は、難透水性層が不連続でかつ堤体上への降雨の影響を考慮した場合でも、図表Lの1のとおり一・三以上(簡便法によって計算した場合でも一・〇八以上)となり、浸潤によっては破堤しないこととなる。

五  当事者の承継関係

別紙承継関係一覧表のとおり、同表被承継人欄記載の第一審原告らが死亡し、同表承継人欄記載の者らがそれぞれ権利を承継した。

六  まとめ

よって、控訴人らは被控訴人に対して、控訴人らの被った損害の内金として、それぞれ本判決添付別紙控訴人及び請求金目録の各控訴人名下記載の金員及びこれに対する昭和五一年九月一二日から完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

(被控訴人の主張)

一  河川管理の瑕疵について

国家賠償法二条一項にいう営造物の設置又は管理の瑕疵とは、営造物が有すべき安全性を欠き、他人に危害を及ぼす危険性の有る状態をいい(最高裁昭和五六年一二月一六日大法廷判決・民集三五巻一〇号一三六九頁)、かかる瑕疵の存否については、当該営造物の構造、用法、場所的環境及び利用状態等諸般の事情を総合的に考慮して具体的、個別的に判断すべきものである(最高裁昭和五三年七月四日第三小法廷判決・民集三二巻五号八〇九頁)。

ところで、河川の管理については、道路その他の営造物の管理とは異なる特質及びそれに基づく諸制約が存するのであって、河川管理の瑕疵の有無の判断に当たっては、右の点を考慮すべきものといわなければならない。すなわち河川の管理には、原判決事実J―5丁表九行目からJ―6丁表九行目に摘示のとおり、その特質に由来する財政的、技術的、社会的制約が内在するため、すべての河川について通常予測し、かつ、回避し得るあらゆる水害を未然に防止するに足りる治水施設を完備するには相応の期間を必要とする上、治水施設の整備の現状は当該流域において生起が予測される洪水のすべての作用を防御し得る水準に達していないから、これらの点を考慮すると、未改修河川又は改修の不十分な河川の安全性としては、右諸制約の下で一般に施行されてきた治水事業による河川の改修、整備の過程に対応するいわば過渡的な安全性をもって足りるものとせざるを得ない。

「従って、我が国における治水事業の進展等により、前記のような河川の管理の特質に由来する諸制約が解消した段階においてはともかく、これらの諸制約によって未だ通常予測される災害に対応する安全性を備えるに至っていない現段階においては、当該河川の管理の瑕疵の有無は、過去に発生した水害の規模、発生の頻度、発生原因、被害の性質、降雨状況、流域の地形その他の自然的条件、土地の利用状況その他の社会的条件、改修を要する緊急性の有無及びその程度等諸般の事情を総合的に考慮し、前記諸制約の下での同種、同規模の河川管理の一般水準及び社会通念に照して、是認し得る安全性を備えていると認められるかどうかを基準として判断すべきである。そして、既に改修計画が定められ、これに基づいて現に改修中である河川については、右計画が全体として右の見地からみて格別不合理なものと認められないときは、その後の事情の変動により当該河川の未改修部分につき水害発生の危険性が特に顕著になり、当初の計画の時期を繰上げ、又は工事の順序を変更する等して早期の改修工事を施工しなければならないと認めるべき特断の事情が生じない限り、右部分につき改修が未だ行なわれていないとの一事をもって河川管理に瑕疵が有るとすることはできない」(最高裁昭和五九年一月二六日第一小法廷判決・民集三八巻二号五三頁、以下「大東水害訴訟最高裁判決」という。)。

ところで、右大東水害訴訟最高裁判決の判示の前段部分は、河川管理瑕疵が問われている部分が未改修である場合のみの判断基準を示したものではなく、我が国の治水事業に未だ河川管理の特質に由来する諸制約が存する現状においての河川全般に関する管理瑕疵の判断基準を示したものである。また、同後段部分は未改修河川の管理瑕疵についての判断であることは明白であるがこれのみに限定したものとは考えられず、右判断において重要な点は、

1 改修中河川において定められている改修計画が不合理なものであるか否か、

2 右計画を変更して河川管理瑕疵が問われている部分に早期に改修工事をしなければならない特段の事由があるか、

という二点に集約されるところ、2の点は改修中河川における改修済部分につき改修計画を変更し未改修部分の改修に優先して手厚い改修工事を施工しなければならないという適用が考えられる。これに、未改修か改修済みであるかの区別は当面の改修計画に照して計画通りの工事が完成しているかいないかということからする区別にすぎず、河川法における計画規模それ自体が絶対的な安全性を確保するという状況には到底及ばず、計画降雨の年超過率を一級河川の主要区間において一〇〇分の一から二〇〇分の一以下となるように定められている程度で、まして現状においては計画内容と改修事業の現状との間に相当大きな差があるので、実際には当面の整備目標という中間的な目標を設定して段階的に改修事業を実施している現状にあり、未改修か改修済かの区別はさほど重要な意味を有していないことをも併せて考慮すると、右判断基準が当該部分が未改修か改修済であるかによって異なるものではない。

よって、本件破堤についても、前記大東水害訴訟最高裁判決の河川管理瑕疵の判断基準がそのまま適用されるべきは当然であり、要するに、右瑕疵の有無は、本件堤防が本件破堤時における同種、同規模の河川管理の一般的水準、社会通念に照して是認し得る安全性を備えていたと認められるか否かをもって判断されるべきものである。

その際の判断の具体的プロセスとしては、本件破堤当時本件堤防が右の基準に照らし要求されていた強度はどの程度のものであったか、換言すれば、右の意味で本件堤防が破堤をみずに安全に流下せしめるべく要求されていた洪水の規模、態様はどのようなものであったかの判断が、まずもって基本となるというべきである。その上で、かかる安全な対応が要求されていた洪水と、現実に破堤を招いた洪水の質的、量的な比較がされなければならない。そして、現実の破堤を招いた洪水が安全な対応を要求されていた洪水を質的、量的に上回るものであったと評価されれば、その破堤につき河川管理責任を問うことはそもそもできないものである。逆にいえば、現実の破堤を招いた洪水が、安全な対応を要求されていた洪水を下回るものであるときに、初めて、その破堤原因との関係で河川管理者がそのような態様による破堤を諸制約の下で予見し得たものか否か、あるいは客観的に水準に達していなかったという当該堤防の管理が将来の改修計画の存在等に照し、なおやむを得ないものであったかが問われるのである。

このような考え方の当然の帰結として、現実の破堤を招いた洪水が安全な対応を要求されていた洪水を質的、量的に上回るものであった場合には、瑕疵責任を追及するについて、厳密な破堤原因を究明することは無意味であり、現実の破堤を防ぎ得た手段の有無を考察することも無意味であり、本件洪水が真に既往最大の洪水であったか否かを論ずることもそれ自体としては重要性をもたない。

以上の諸点に基づき、本件における河川管理の瑕疵の有無を端的に論ずれば、現行の各水系の工事実施基本計画は、我が国の一般的な洪水特性である短期集中型洪水を対象として、これを越流させない堤防高を確保することを基本としており、本件の如き長期間継続する洪水はそもそも防御の対象としておらず(仮に長期間継続する高い水位に対しても安全であるような堤防を設けるとすれば、既存堤防とはその形状、構造及びその基礎の選択において、大幅に異なったものとならざるを得ず、全国一四万キロメートルにおよぶ河川の堤防につきことごとく改築を要するところ、短期集中型洪水に対する整備についてさえ、未だ低い水準にある我が国の治水の実情からみて、このようなことは全く現実的とはいえないのである。また、特定の部分についてのみ整備を優先することは全国的な治水施設の水準向上が急務となっている現在合理性を欠く。)、本件堤防が本件破堤当時安全な対応を要求されていた洪水は、これをいかに高めに評価しても、長良川の工事実施基本計画に定める基本高水である昭和三四年九月、同三五年八月洪水及びこれに匹敵する昭和三六年六月洪水の三つの洪水、いわゆる昭和三大洪水の規模、態様を上回るものでは無かったというべく、他方、本件洪水の規模態様が、右昭和三大洪水のそれを大幅に上回る、ないしは、全く異質、異常な作用を伴うものであったことは明らかであり、従って、本件破堤につき、河川管理の判断をするに当たっては破堤の真の原因や、回避措置の有無に立入るまでもなく、そもそも河川管理責任が問われる余地はない。

また、前記大東水害訴訟最高裁判決における判断基準に照してみても、本件堤防に関し河川管理の瑕疵はなかった。

本件堤防は、完成度の高い堤防であり、同種同規模の河川管理の一般水準及び社会通念に照して、是認し得る安全性を備えていた。

仮に本件堤防を「未改修部分」とみるにしても、長良川の改修計画及びその実施状況は全体として極めて合理的であったし、本件堤防の管理は十分に行なわれてきており、当初の改修計画の時期を繰上げ、又は改修工事の順序を変更するなどして、早期の改修工事を施工しなければならないと認めるべき特段の事由はなんら生じていなかったのである。すなわち、本件堤防は昭和初期の築堤以来約五〇年間の長期にわたり多くの洪水を安全に流下せしめたという実績をもっていたし、特に昭和三大洪水においては連続三回にわたり当時の計画高水流量を上回る洪水をことにそのうちの二回は計画高水位を上回る洪水を安全に流下せしめたのである。また本件堤防を含む長良川の堤防に関しては河川巡視、定期の除草、付近住民からの情報収集、出水前後の損傷の点検、維持補修工事の実施等河川管理の通常の原則に従い適正な管理を行なってきたが、このような中でも本件堤防につき水害発生の可能性をいささかでも示すような兆候は本件破堤に至るまでなんら認められなかったのである。

二  丸池原因説に対する反論

1 土の疲労破壊について

松野は本件破堤は「土の疲労破壊」であると主張するが、「土の疲労破壊」について論じた文献はなく、土質特性を論ずる土質工学の学問体系に当てはまらない独自の概念であり首肯し難い。すなわち、金属疲労とは異なり、土の構造物の場合には、その本来の強度以下の外力が加えられても局部的な土の流れや剥離が起こる程度であって、外力の累加によってこれらの現象が進行しても堤防全体の安定性を脅かすに至るということは通常考え難いし、塑性体である土の構造物の場合は、当該外力に対し安定するまで破壊現象が進んでしまい、以後はこれと同等の外力が加えられてもそれ以上の破壊現象は生じないはずであり、次回の外力が加えられるまで、当該外力に対して不安定なままの状態で維持されるということは考え難いのであって金属疲労の場合になぞらえるのは不適切である。また、土の構造物の場合には、その強度以下の外力を繰返し受けても施工後、日数を経るに従って自然圧密が進むことによって、土粒子間の結合が強度を増すというのがむしろ土質工学の一般的知見であり、「土の疲労破壊」という概念によって本件破堤の現象を説明しようとすることは不適切である。

2 写真による前兆現象について

松野は航空写真の判読により「破堤の兆候」を発見したといい、中川は同人がなした写真判読によったとして、松野の判読結果の一部を支持し、同人独自の判読の結果、破堤の兆候が見られるとしている。

しかしながら、航空写真の判読は高々度の空中から撮影した写真を使って肉眼により判読するものであるから当然写真に写っていない部分についてはもとより判読不可能であるし、写真が不鮮明であれば判読は困難となるし、そもそも、肉眼では最小限度〇・〇二ミリメートルくらいまでしか読取れないとされているから、航空写真から得られる情報には自ずから限界がある。そのうえ、判読によって得られる情報の精度と量は、判読者が写真の持つ諸性質をいかによく知り、その扱いに慣れているか、判読しようとする対象の物象について判読者が専門的にどれだけの素養があるか、判読経験が豊富か否か等判読者の能力に左右される。また、航空写真判読過程は、観測、確認の過程、分析、分類の過程、解釈の過程からなるが、過程が進むほど情報の量としては使用目的にあった高度の情報が得られる半面、情報の正確さという意味での確実性は、逆に低下するといわれている。ところで、松野、中川の航空写真判読技術の有無と経験の多寡については多大な疑問があり、その判読結果は措信できない。

次に昭和三六年一〇月航空写真について、控訴人らは、同写真に昭和三六年六月洪水による損傷の補修工事の形跡が見られるというが、同写真に見られる裏小段の付け根付近に見られる白色帯(図表Hの2の⑯部分)の表面は整っておらず、ささくれた連続状のものであってブロック状のものとは認められないし、白色帯の側面の黒い部分は白色帯の陰であり、この部分には杭は認められない(なお、堤防裏法尻部の白色帯(図表Hの2の⑰部分)も土嚢とは認められず、白色帯が堤防法尻部にすりつくように認められることから枯草か裸地と推定される。)。更に、右白色帯から下流に向ってできている裏小段(図表Hの2の⑱部分)の轍の跡といわれるものが、補修工事の資材の運搬のために生じたものであるとするならば、他の一方は資材を供給できる地点まで通じていなければならないところ、右轍の跡は本件破堤箇所から下流側約一九〇メートルの地点で何等資材供給地点となり得る地点に至らないままとぎれており、資材運搬のために生じたものではないことが明らかである。当時家畜の飼料にするため本件破堤箇所付近で草刈が行なわれていたことからすると、中川が指摘するものは、刈った草を干し草として小積みにしたものと考えるのが相当である。右草刈り跡について堤体のクラックを探すために行なった草刈りをした可能性が有るとの見解は、仮にそうだとすれば、補修工事をしたとされている部分周辺を中心的に草刈がなされるはずなのに、同部分には草刈りの跡がなく、右見解は失当である。なお、昭和三六年六月洪水による堤防損傷の復旧に関する地元民の陳情書は、小規模の損傷についても記載されていることからして、詳細な調査の下に作成されたと解されるにもかかわらず、右指摘箇所についての記載はなく、もとより、復旧工事を行なう建設省の記録「木曾川上流三六年発生三七年発生災害実施計画及び変更調書」にも当該箇所における復旧工事がなされたとの記載はなく、また、現実の水防活動にあたる地元民もそのような補修工事に従事したことはなかったとしており、主張のような損傷はもちろんその補修工事もなかったことが明らかである。

昭和五〇年航空写真からの松野の判読結果も措信できない。すなわち、図表Hの1の⑥、⑭、⑮の地点には丸池の幅一杯に葦と思われる植物が繁茂しているため到底地盤の状況を判読することができないのであって、松野の判読結果は恣意的な解釈であって、首肯できない。

図表Hの1の⑤及び同様のすべり跡と認められる箇所が三箇所あるとの点については、松野が独自に発見して航空測量会社の意見を徴しないまま指摘している異常点であり、既にその点からして信用性が低いし、同部分はヒシと思われる水草の面が黄褐色に変色しているに過ぎず、変色部分に盛り上がりが認められず、岸辺付近にも裸地が存在しないとされているからその付近に崩壊があったとはいえない。

同Hの1の④の点は、畑に下りるために生じた踏み跡状のものであって何等特別な意味を有するものではない。

同Hの1の③の部分に見られる暗影部は「黒っぽい物体が路面より上に盛り上がってその上に白っぽい小さな物が二個認められる」にすぎず、松野の判読は逆立体視しなかったための誤読であり、その解釈も恣意的である。

同Hの1の②の地点は、国際航業株式会社作成の業務報告書によれば、小段の少し下に植生の低い部分があるが、草の丈の高いところも所々にある、地盤全体を直視できないところであり植生の低さイコール地盤の凹部とは判断できない、そして、その下の犬走り部分には崩壊土砂らしきものは認められず、地盤の盛り上がりも認められないというのであって、松野の判読結果は恣意的である。

なお、中川は昭和四三年撮影の写真によると図表Hの3の⑲、⑳の部分に地盤状態を反映した植生の変化が見られ、昭和五〇年撮影写真にもほぼ同一の変状が見られるとしているが、昭和四三年撮影の写真による図表Hの3の⑲、⑳の部分や昭和五〇年写真の図表Hの3の⑳に相当する部分には植生の変状はないし、昭和五〇年写真の図表Hの3の⑲に相当する部分に植生の凹部が見られるものの右写真からは直ちに地盤の凹部であるとは判断できないのであり、除草された状態を撮影した昭和四五年撮影の航空写真によれば、該当箇所の地盤には何等の変状が認められず、中川の指摘するような事実はないのである。

松野は、いわゆる「犬走り」部分の幅が減少し後退しているというが、そのような事実はない。

なお、松野は、図表Qの1、2のD段階での変状の原因を丸池のカイドリを挙げ、同E段階についてはゴミの除去作業を挙げているが、仮にこれらによって何等かの損傷を生じたのであれば、鵜飼、松野断面による限り、安全率は一以下となり、相当大きなすべりが、その作業の最中に発生したはずであるのにその様な事実はなかったのであるから、このことはとりもなおさず、変状はなかったことと鵜飼、松野の断面が誤っていることを端的に示している。

平場の有無についての補充的主張

本件堤防の裏法尻の丸池沿いには幅一七・〇ないし一七・五メートル以上の平場が存在し、本件堤防は安定した堤防であった。

すなわち、右平場が存在した事実は、新堤築堤関係者の供述や昭和四三年測量図(これは、長良川右岸堤防を計画定規断面に拡幅(裏腹付け)するために、建設省木曽川上流工事事務所が訴外大日測量株式会社に発注した工事用の地上測量の成果であって、これによって拡幅工事の実施設計や施工計画を決定するものであるから精度の高い結果が要求されていたものである。)により明かである上、右測量図の天端裏肩から平場の最遠点までの距離と昭和五〇年撮影の航空写真に写っている丸池内の水生植物の最遠点との距離はほぼ等しいところ、堤防裏法尻から丸池内にかけて一〇メートル前後の区域に見られる水生植物は葦であり、その頭がほぼ水平に繁茂していることからして、池底面の勾配は水平に近く、かつ濃尾平野においては葦は水深二〇センチメートル程度の所に生えるものが最も多くみられるからその水深はその程度の浅さと推測され、更に葦に続いてヒシという水生植物が見られるが、ヒシの群生の生育限界水深は二メートル前後といわれており、このことからすると少なくともヒシの繁茂する範囲までの水深は二メートル程度までであり、その池底の形態も緩やかな勾配を持ったものと推測される。なお、輪之内町の日比池及び道前池に繁茂していたヒシは戦後復員者が中国から持ち帰ったトウビシであって、丸池に生育していたわが国在来のヒシとは異なる種類のものであるから、右両池において行なわれた調査結果は当を得ないし、ヒシが水深三メートル以上の池にも生えていたとの文献の記載は、山の中の池など特殊な条件の下であったか、または単体として生育できる例を引き合いに出しているにすぎず、丸池など濃尾平野において一般に見られるヒシの群生には当てはまらないし、ヒシの茎の長さと水深とは必ずしも結び付かないから、ヒシの生育しているところの水深をそのヒシの茎の長さと同程度であると推測することは相当ではない。

3 浸潤線の位置、形状について

松野は新堤築堤工事の際、トロッコのレールの下に敷いたバラスト層が堤体内に残存しており、これが非常に透水性が高かったため、浸潤線を押上げたと主張するが、新堤築堤工事において、バラストを撒いたような事実はなく(仮にバラストを撒いたとすれば、本件堤防は上路工を行ない土砂を撒き出す方法で施工されたのであるから、堤防の断面のいたる所にバラスト層が存在しなければならないのにその様な状況はないし、松野がバラスト層であるという砂層の堤内側端に当たる小砂利及び砂の部分は、旧堤体の粘土の中に含まれる形になっているが築堤時にどのよう施工経緯で旧堤体内にバラストを敷設する必要が有ったのか首肯しがたい。)、松野がバラスト層であるとする「レキ混じり部」は旧天端付近にのみ認められ、かつ旧堤の堤体粘性土にめり込んで存在しているから、松野が推定するほど透水性が高いものではない。

4 すべり面について

松野は土質が不連続な面で例外なくすべりが発生しなければならないとの見解に立って、堤体下に存在したと考えられる上部粘性土層と堤体土が接合する部分ですべりが発生したと主張するが、堤防のすべり破壊はすべろうとする堤体土の自重とそれに抵抗する堤体土の持つ摩擦力、粘着力のバランスが崩れた面で発生するのであって、必ずしも土質が不連続な面ですべるとは限らないから、右主張はすべり破壊に関する限り妥当しない。

また、松野は破堤状況の写真(甲第一四四号証一六頁のもの)によると、図表Qの3のC'の部分が土塊のまますべっているから、なめらかな池底面をすべったと見るしかないというが、右写真に見られる土の塊はトタン塀に囲まれた部分であるところ、同図のトタン塀の位置は誤りであって、正しくは同図のC"の上部付近に位置していたものであり、土の塊は平場そのものであり、C'の部分は堤体がすべった時点で崩壊していると考えるのが相当である。よって、松野のこの点に関する主張は失当である。

5 安定計算について

松野が採用した土質定数についての反論は、後記山口鑑定に対する反論、鵜飼鑑定に対する反論のとおりである。

松野は安全率の計算に簡易ヤンプー法を用いたが、その計算式自体不正確であって、次の計算式が正しいし、F=FO・1/{Q+∑(W・tanα)}・∑[{Cb+(W-ub)tanφ}/{cos2α(1+tanα・tanφ/F)}]そもそも、簡易ヤンプー法は現実のすべり面が確認できるような場合に用いられる計算式であり、現実のすべり面を検証できないような場合にこれを用いることはその計算結果を主観的、恣意的なものとするおそれがあり、本件においてはこれを用いるのは適当ではない。

松野の計算結果によれば、本件堤防の安全率は図表Qの2のE段階では約一・〇であり、わずかでも危険側に条件が変化すれば、破堤に至ってもおかしくない値であるが、現実には、本件堤防は本件降雨、洪水の第四波のピーク時まで耐えているのであるから、右安全率は現象面に照しても失当であるといわざるを得ない。

6 堤体断面形状について

松野が主張する丸池の水面下に没する斜面の形状、ことに水中安息角を採ったとする点については、その根拠が希薄であり、また、松野らが行なったという実験はその試供体(池の底に有った粘土と堤体土を重量比九対一の割合で混合した物)が現地の物と符合するか否かについて明らかではない。

また、松野の断面も鵜飼の採用した断面と同様であって、丸池水面に没する斜面部分の最小安全率が平常時においても〇・八五という値となり採用できないものであることは同様である。この点につき、松野は水中重量法による安定計算をして最小安全率が一・〇四であることを確認したというが、その計算方法が正しいか否か疑問が有り、仮にそうだとしても、安全率が一・〇四の断面が非常に不安定であることに変りはなく、前記のカイドリやゴミ排除のために重量約二トンのバックホーが丸池の水際で作業したにもかかわらず斜面が崩壊しなかったり、本件堤防が昭和三大洪水を初め幾多の洪水に耐え、本件洪水においても第四波まで耐えたことの諸事実に照して不合理である。

なお、山口は鵜飼鑑定の断面でも土質定数を粘着力C'を〇t/m2、内部摩擦力φ'を二〇度として安定計算をすると安全率は一・〇〇六となり、平常時でも安定を保ち得るというが、一つのすべり面しか検討しておらず、検討方法は極めて不十分であり、そのすべり面の位置が明示されていないため検討ができない。因みに、山口の検討条件に合せて鵜飼断面について安全率を求めると平常時の最小安全率は〇・八五となり、山口の計算はその前提を誤っていると思われる。

また、昭和五〇年九月撮影の航空写真によれば、堤防敷端から丸池内にかけて約六ないし八メートル前後の区域に葦の植生が見られ、更に葦の植生区域から池の中央にかけて幅約七メートルにわたりヒシと見られる浮葉性の植物が見られるが、右葦とヒシの生育できる限界水深から考えても、松野の断面は否定される。この点について、松野はゴミの上に葦が生育しているというが、そのようなことは常識的ではなく、土質的な強度を考える余地のない軟弱な地盤に地上の茎が一ないし三メートルにも及ぶ葦のような大型の抽水植物が生育するというのは明らかに不合理である。

三  パイピング破堤に関する主張に対する反論

控訴人らはパイピングが破堤に寄与したと主張する。

しかしながら、現象面からみてパイピング破堤の可能性はなく、土質工学の立場からみても否定される。

1 丸池内のパイピングの存在を認めるに足りる証拠はないし、およそパイピング破堤は稀有のこととされており、本件においてはパイピング破堤の徴憑とされる堤防の横断方向の亀裂や溝状の陥没が見られず、破堤後の地質調査においてパイピング孔の痕跡が発見されていない。

2 土の移動の限界流速に関してはジャスティンの式が一般によく用いられており、これによって本件の場合に土の限界流速を求めると概ね五ないし七cm/secであるのに対して、基礎地盤内で発生する浸透流速は〇・〇二cm/secであり、本件において土粒子が移動する可能性はない。

また、限界動水勾配の方法を用いても、地盤内の動水勾配は〇・一二であるのに対して、限界動水勾配が〇・八〇となり、土粒子は移動しない。

なお、ガマとは洪水時に堤内地盤にみられる局所的な水の自噴のことをいい、パイピングとは直接関係のないことである。

3 控訴人らは、山口見解に基づきパイピング破堤の可能性があるというので反論する。

(一) ガマの流速について

山口はリリーフウェルの式を用いてガマの流速の計算を行なっているが、右式は、井戸における揚水の際に用いる式であり、ガマの流速の計算に用いることは適切ではない。

しかも、山口は図表Nに記載したとおり、ガマ流速が大きくでる堤防法尻における流速を計算しているばかりか、殊更にガマの流速が過大になるような条件で計算を行なっており、適正な計算によればせいぜい〇・〇三五cm/secであり、直径〇・一ないし〇・五ミリメートルの土粒子についての久保田・田中の実験値〇・四ないし〇・七cm/secより小さくこれと比較しても、土粒子が動くことはない。しかも、右実験値は、粒径のそろった一様性の高い材料に関するものであり、本件のごとく粒径が大小混合した均等性の高い土の場合に適用することは不適切である。

(二) パイピングの発達について

山口は、流線網図によりパイピングの発達について説明しようとしているが、パイピングが発達したら結果としてそのようになるというだけのものであって、パイピングが発達するかどうかの説明になっていない。

山口もパイピングの進行速度、加速性については定量的に検討できないとしており、これによってパイピングが生起したかどうかを判断する根拠とはできない。

(三) 山口はアーチ作用によりパイピング孔が自立するというが、パイピングがあった場合には、孔の周りからも水が集っており、動水勾配が生じているのであるから、アーチ作用が働かないことは明らかである。

また、正方形の空洞が安定するという仮定は成立たない。

(四) パイピング破堤について

山口は、パイピング孔の崩壊によって残留過剰間隙水圧が発生し、これにより堤体土の強度定数である粘着力、内部摩擦角が低下するというが、安全率の計算式それ自体において明らかなように間隙水圧によって強度が低下するのは内部摩擦角のみであるし、本件破堤において、どのようにして、どの程度低下したかについての根拠はなく、計算結果に特段の意味はない。

また、丸池を埋め戻した場合のパイピング破堤の防止効果についての主張は、その検討に用いられた強度低下係数(〇・〇五)は仮定にすぎず、その根拠もないばかりか、その計算において難透水性層上下面での水頭差を三メートルとするのは前記の通り過大であり、せいぜい一メートルである。丸池を埋め戻さなくても動水勾配は〇・二五、埋め戻したら〇・一一一から〇・一二五になるだけであり、いずれも限界動水勾配の〇・七より下回っているから、ガマが発生することはなく、右主張は当を得ない。

以上のとおり、山口の見解は成立たない。

四  浸潤破堤についての主張の補充

1 透水係数について

透水係数は、もともと何億倍あるいはそれ以上の幅をもって変化するものであるが、本件堤体土の密度は、初期乾燥密度の値が一・三四から一・三八t/m3に集中するとされていること、乾燥密度が小さい程透水係数が大きくなる傾向があること、及び図表Ⅰの4からこれらの密度に対応した堤体土の試料の透水係数は概ね1~2×10-3cm/sec程度になると認められ、さらに、現場の透水性は一点毎の室内透水試験に較べて高めになりがちであることを勘案すると、室内透水試験結果の内でも大きめの値である2×10-3cm/sec採用することは相当である。

2 せん断強度定数について

(一) 目視法を採用したのは、慎重に試験を行なっても試験値には相当のばらつきがあるのが通常であり、その中に異常値があった場合最小二乗法ではこれを含めて機械的に計算して誤った結果を導くおそれがあり、むしろ現場における試料の採取者が自ら試験を行なって、採取の際の現実の状況と試験中の供試体の状況をふまえかつ工学的な判断を加えた上で目視法により共通接線を求める方がより真値に近いと思料されるからである。

(二)  試験においては供試体をせん断破壊させる際、水の出入りのないようにするため間隙水圧が発生するのに対して、CD試験においては常に排水されるようにするため間隙水圧が発生しない点に違いがあるところ、本件堤体土は砂質ロームでシルト質の細粒分を多く含んでいるため、破壊時に水を急に排水できず、間隙水圧が発生することになると考えられ、試験の方が現場の状況に合致していると思われる。

(三) 粘着力C'、内部摩擦角φ'をせん断前密度に対応するプロットから読取るべきことも、同様に現場の状況にできるだけ合致させようとするものである。

(四) 山口の算定した最小二乗法による三軸圧縮試験結果をもとに、プロットした図表Kの2より判断しても、粘着力C'は〇・一t/m2、内部摩擦角φ'は三二度であり、控訴人の設定した強度定数の妥当性が裏付けられる。

3 簡便法について

簡便法は土質工学上確立された計算式として広く用いられており、その安定計算結果が実際の現象とよく一致しており、実際の破堤現象を矛盾なく、かつ十分な精度をもって解析できる。

四  当事者の承継関係についてはすべて認める。

(証拠の関係)《省略》

理由

第一はじめに

一  本理由中において、以下の証拠については、上欄記載のとおり略記するものとし、各書証の成立関係の判断は( )内のとおりである。

国土研報告書 甲第六九号証の一《省略》

国土研検討書 甲第二九五号証《省略》

建設省報告書 乙第二七号証の一、二《省略》

三本安八証言 乙第八四号証の一、二の各一、二《省略》

三木墨俣証言 原審における証人三木五三郎の証言《省略》

三木意見書 乙第四九号証の三《省略》

松野証言 当審証人松野操平の証言

新大報告書 甲第四二号証の一、二《省略》

鵜飼鑑定 鑑定人鵜飼惠三の鑑定の結果《省略》

松野鑑定意見書 甲第三四四号証《省略》

中川証言 当審証人中川鮮の証言

中川鑑定意見書 甲第二〇二号証《省略》

山口証言 甲第三三八号証の一ないし六《省略》

山口鑑定書 甲第一九四号証の一、二、第三二五、第三二六号証、第三三一号証《省略》

山口補充書その一 甲第三二八号証、第三三二、第三三三号証《省略》

山口補充書その二 甲第三五〇号証《省略》

地質調査報告書 乙第二四号証の一、二《省略》、第七五号証《省略》、第八三号証の一、二《省略》、同号証の三《省略》、乙第六五号証《省略》

三六年五月航空写真 甲第一八六号証の写真部分、第一九八号証の一の写真部分、同号証の二《省略》

三六年一〇月航空写真 甲第一九九号証の一、同号証の二の写真部分、第二〇三号証の一、乙第一二二号証《省略》

四〇年航空写真 甲第一九〇号証の写真部分《省略》

四三年航空写真 甲第二〇〇号証の一、同号証の二の写真部分《省略》

四五年航空写真 乙第一一九号証の一、二《省略》

四九年航空写真 甲第一八七号証の写真部分《省略》

五〇年航空写真 甲第三号証、第一八二号証の一の写真部分、第一八三号証、第一八四号証の写真部分、第一八五号証、第一八八号証の写真部分、第一八九号証《省略》

二  本判決の理由において引用した書証(前記一掲記の書証は除く)の成立に関する判断は、以下のとおりであり、理由中においてその都度成立関係について説示をすることはしない。

《省略》

第二本件災害の発生

一  昭和五一年九月一二日午前一〇時過ぎ、岐阜県安八郡安八町大森地先において長良川右岸堤防が決壊し(以下右決壊を「本件破堤」、決壊箇所を「本件破堤箇所」という。その位置は、原判決の図30のとおりであり、地質調査報告書によれば、河口から三三・八キロメートル距離標の上流約一〇〇メートル地点から約八〇メートル上流までの間である。)、流出した河川水によって同郡安八町及び墨俣町の一部が浸水したこと、長良川は一級河川であって被控訴人の国がこれを管理するものであること、以上の点は当事者間に争いがなく、国土研報告書、《証拠省略》によれば、本件破堤時刻は同日午前一〇時二八分頃であったと認められる。

二  本件破堤箇所の地形及び本件堤防の形状

1  長良川の概要

建設省報告書によれば、長良川は、一級河川木曽川水系に属する河川で、木曽川、揖斐川と併せて通称木曽三川といわれているが、この木曽三川はいずれも広大な濃尾平野を取り巻く山岳地帯にその源を発し、それぞれ濃尾平野を貫流して、ほとんど同一地点に集まって伊勢湾に注いでおり、流域面積は合計約九一〇〇平方キロメートル、幹川流路総延長四九四キロメートルに達していることが認められる。

そして、そのうち中央を流れる長良川は、岐阜県郡上郡高鷲村奥本谷の大日岳に源を発し、各支流を合わせながら、同郡白鳥町、八幡町、美濃市、岐阜市を経て、岐阜県海津町において木曽川と併流し、三重県桑名市において揖斐川と合流して伊勢湾に注ぐ川であって、その流域面積(その範囲は原判決の図8、9、15記載のとおりである。)は一九八五平方キロメートル、幹川流路延長一五八キロメートルであることは当事者間に争いがなく、建設省報告書によれば、その流域面積の内約七〇パーセントが飛騨山地、両白山地の南部に属していると認められる。

2  本件堤防の来歴

建設省報告書《証拠省略》に弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。

一般に、沖積平野の中心部には河川の氾濫の結果として河川に沿ってやや標高の高い自然堤防が生まれ、その後方には標高の低い後背湿地が形成される場合があり、濃尾平野においては木曽三川が網状に連結して流れていたため、この自然堤防は島状に、かつ、その外周部が環状に形成され、これに囲まれた内部が後背湿地となった。そして、右自然堤防に人が居住し、後背湿地内が水田として利用されるようになった後は、集落を洪水から守るため自然堤防を利用して人工の堤防が造られるようになり、最初は自然堤防の上流側にのみ堤防を築き、下流側は内水の排除のため堤防を築かなかった(尻無堤といわれる)が、江戸時代には無堤部分にも築堤をして環状に連続させ、集落を囲む懸廻堤へと発展し、いわゆる論中堤が完成したのである。

以上の事実が認められる。

そして、前掲証拠と地質調査報告書を総合すると、本件堤防はもともと森部輪中堤として造られた堤を改修して今日にいたっているものであり、森部輪中堤は、慶安三年(一六五〇年)の洪水の復旧工事の施工により、森部、南今ケ淵、大森、氷取、善光、大野及び南条の七か村の懸廻堤を完成したものであること、本件破堤箇所はもともとは森部集落の懸廻堤の一部であったが、本件破堤箇所付近は、森部輪中においても最も標高の低い後背湿地部分であって、本件堤防部分にあたるところに自然堤防とみられる部分があったとしてもその標高は低く(図表C参照)、尻無堤の頃には無堤部分であり、この箇所に築堤され懸廻堤が完成したのは比較的後期であったこと、以上が推認されるのである。

本件破堤箇所付近には、堤内側に接して丸池が存在しているが、三六年五月航空写真、国土研報告書、地質調査報告書、《証拠省略》によると、木曽川上流改修計画に基づき大正一五年から昭和五年にかけて、旧丸池(旧丸池は現在の丸池よりも大きく、現在の堤防敷の下や下流側等もその範囲に含まれていたが、下流側部分のひょうたん池と呼ばれていた部分は昭和三六年頃に埋め立てられた。)を迂回する形で川側に膨らんで造られていた旧堤を三メートル前後かさ上げして天端幅を拡幅するとともに、旧丸池の東部部分を埋め立て、もっぱら旧堤堤内側法面に腹付けし、旧堤の堤外側の一部を削り取って、堤防法線を整正する大改修工事が行なわれ、その結果、本件堤防は旧堤の堤体部分を堤外側に偏在して内包する形となったこと(旧堤と旧丸池の形状及び新堤築堤工事の範囲は原判決の図1、10のとおりである。)、その後本件災害時までの間には大きな改修はなされなかったこと、以上の事実が認められる。

3  本件堤防の形状

《証拠省略》によると、本件堤防については、昭和四三年一〇月から一二月頃の間に、工事実施計画の立案のために地上測量が行なわれているところ、これによれば、本件堤防の幅は約六〇メートルであり、丸池との平面的関係及び丸池上流寄り部分(昭和四三年測量図の50測線)における堤防断面(丸池の池底面の状態は後記第四、四、3、(一)において認定するとおりである。)は、図表Eの該当部分のとおりであり、堤防高が約一二・八メートル(以下、高さを表わすときはTP(東京湾中等潮位)による。)で計画高水位一〇・六九メートルより約二メートル高く、天端幅が約七メートル強で、表法面には幅約三メートル強の表小段(その上端の高さは約九・三メートル、下端の高さは約九・〇メートル)を備え、裏法面には幅約四メートル強の小段(その上端の高さは約九・三メートル、下端の高さは約八・七メートル)を備えていた上、裏法尻部分には幅約二メートル前後の犬走りを有し、犬走りの東端から丸池の水際までは約五・五メートル、天端裏肩から丸池の水際までの水平距離は約二五・五メートルであり、右測量時の丸池の水面の高さは三・八メートルであったことを認めることができる。

そして右測量結果と五〇年航空写真、地質調査報告書、《証拠省略》に弁論の全趣旨を総合すると、本件破堤時の本件堤防の形状も、右測量結果とほぼ同一であり、ただ、天端は昭和四八年頃アスファルト舗装がなされて兼用道路となっていたこと、また、堤体表面は芝草等で覆われていたが、犬走り部分の先河川敷と安八町所有の土地及び丸池との境はほぼ前記図表Eの(5・0)と表示されている線であり、右線に沿って丸池へ不法に塵芥が投棄されないように昭和五〇年一二月に設置されたトタン塀が存在していたこと、以上の事実が認められる。

なお、《証拠省略》には、五〇年航空写真から、その高さ形状を判読したものであるとして、右と若干異なる堤防断面図(図表F、前記図表Eと同じ50測線の断面である。)が示されているが、当審証人今村遼平の証言によれば、航空写真は見えるものしか判読できず、草などの植生によって表面が覆われている場合に地盤の高さを判読することはできない上、特に高さの判読には誤差が避けられないことが認められるのであって、その正確性については問題があり、直ちに採用することはできない。

三  気象の概況

昭和五一年九月四日午後三時にカロリン群島付近で発生した台風一七号は、発達しながら北西進し、同月八日午前九時には南大東島付近に達し、中心気圧九一〇ミリバールとなり大型の非常に強い台風となった。台風はこの頃が最盛期であった。一方、同日午後から九日朝にかけて沿海州付近を北東進した低気圧に伴う前線は、北海道西岸から南に延びて西日本に達していた。

台風は、同月九日午前九時沖縄付近を通過する頃から転向して向きを北に変えて進んだが、その後同月一〇日から一二日にかけて速度が遅くなり、九州南西海上で、大型の強い勢力と雨雲を保持したまま、ほぼ停滞状態となった。これに伴い、前線も同月一〇日から一二日まで西日本から東日本にかけて停滞した。台風は同月一二日午後になって北北東に動き始め、同月一三日午前一時四〇分長崎市付近に上陸後、やや衰えながら山陰沖を北東に進み、同月一四日午前六時、北海道西方海上で温帯性低気圧となった。前線も同月一三日には南東海上に移動したが、台風周辺の雲域は相変らず中部地方を覆い、同月一四日早朝には台風の衰弱した低気圧から延びる前線が中部地方を南下した。以上の事実は当事者間に争いがない。

次に《証拠省略》によれば、右気象現象の特性として、

1  台風が大型で、移動速度が遅かったこと、すなわち、台風一七号は、沖縄本島に接近するまでは気象庁の台風分類基準の「大型、非常に強い」の分類に該当し、その後、長崎市付近に上陸するまでは右基準の「大型、強い」の分類に該当したのであり、また、沖縄付近から長崎市付近までの北上速度は毎時九キロメートル弱と遅く、その間八三時間を要し、特に同月一〇日から三日間は屋久島西南海上においてほぼ停滞したこと、

2  台風が遠方にある頃から岐阜県地方などに大雨をもたらしたこと、すなわち、台風一七号がはるか鹿児島南方約一〇〇〇キロメートルの海上にあった八日から、岐阜県地方を含む関東以西の各地で大雨が降り始めたこと、

3  降雨期間が長く、降雨の地域分布のパターンが定着したため大雨となったこと、すなわち、本件降雨は、太平洋高気圧の外縁を北西進する南東気流と台風の外縁を北上する南風との収束によってもたらされる典型的な豪雨型の降雨であったのであるが、八日から一二日にかけて、気圧パターンが北日本を除きほぼ固定したため、南よりの湿潤気流の流入が継続し、降雨の地域分布のパターンもほぼ定着したことにより、岐阜県南西部や三重県西部などの同一地域に雨が継続して、大雨となり、雨量の地域差が大きくなったものであること、

4  豪雨域が南北に細長く延びる形となったこと、すなわち、風上斜面に多いいわゆる地形性降雨の他、これとは別に、北北東から南南西に延びる細長い豪雨域が岐阜県などに現われ、そのため、山間部のみならず平野部にも同時に豪雨をもたらしたこと、

以上の各点が指摘されていることが認められる。

四  降雨の状況

前記の気象現象による長良川流域への降雨の状況は、次のとおりであった。

すなわち、九月八日三重県を中心に強雨が始り、帯状雲域に沿って雨域は南北に広がり、岐阜県においても濃尾平野を中心に雷雨が降り始め、同日夜半頃の岐阜市の時間雨量は九二・五ミリメートルに達したこと、同月九日以降も岐阜県西部を中心に断続的な雨が降り続いた後、同月一〇日夜から一二日にかけて、台風や前線の停滞に伴い大雨の第二波が起こり、南北に延びる湿舌に沿って長良川上流付近から三重県中部に達する地域で強雨が続いたこと、以上の事実は当事者間に争いがなく、建設省報告書、国土研報告書、《証拠省略》と弁論の全趣旨を総合すると、その後、強雨は一時小康状態となったが同月一三日午後から夜半にかけて揖斐川、長良川上流域から三重県北部に延びる強雨域が現れ、同月一四日早朝になってようやく降雨が止んだこと、その間の長良川流域を中心とする降雨量の分布は原判決の図15のとおりで、同図から明らかなように、豪雨域がほぼ長良川流域を包み込む範囲となっており、特に長良川流域に降雨が集中したものであること、また、長良川流域の主な気象庁の雨量観測所における九月七日午前九時から同月一四日午前九時までの日雨量及び総雨量は図表Bのとおりであり、期間中の総雨量は、八幡及び葛原では一〇〇〇ミリメートルを超え、岐阜、美濃及び白鳥でも八〇〇ミリメートルから九〇〇ミリメートルを超える量を記録しているが、これらの各地点で観測された総雨量は、当該地点の年間降雨量(山地部で約二七〇〇ミリメートル、平野部で約二〇〇〇ミリメートル、流域平均で約二五〇〇ミリメートル)の二分の一ないし三分の一に相当するものであったこと、そして、八幡地点における時間雨量は原判決の図16のとおりであり、その降雨の継続時間は、七日午後四時に降り始めてから一四日午前二時に降り止むまで一五四時間の内一一八時間(破堤時までの一一四時間の内八八時間)であり、また忠節地点での降雨の継続時間は七日午後四時から一四日午前一時までの間一五三時間中一〇三時間(破堤時まで一一四時間の内八二時間)という長時間であったこと、また本件降雨は、破堤に至るまで四波、降り止むまで五波に及ぶ強雨群(八幡地点における強雨群の状態は原判決の表10のとおりである。)によってもたらされたものであったこと、そして、本件破堤地点から約二キロメートル東方の羽島消防署の観測記録によれば、同月九日から破堤時までの降雨量の状況は図表Aのとおりであったこと、以上の事実が認められる。

右の羽島消防署の観測記録及び弁論の全趣旨に徴すると、本件破堤箇所もこれとほぼ同様の降雨状況であったと推認できる。

五  本件洪水

本件降雨により、墨俣水位観測所の水位が、破堤時までに四山に及ぶピークを記録し、九月九日最高水位を示したが、いずれも墨俣地点の計画高水位一二・一六メートルに迫るものではあったが、これを下まわるものであったことは当事者間に争いがなく、建設省報告書、《証拠省略》によると、本件降雨による長良川の水位の時間的変化は、墨俣水位観測所の水位については原判決の図16のとおりであり、その内警戒水位八・二二メートル(量水標値四メートル、墨俣地点の量水標の〇点高さはTP四・二二メートルである。)を越えた時間は、九日から一〇日にかけて約三四時間、一一日から一三日にかけて約五七時間(破堤時までは約三三時間)で、その間約一一時間ほど警戒水位を下回ったが、九日に警戒水位を上回ってから一三日にこれより下回るまでの時間(以下これを洪水継続時間という。)は九一時間(破堤時までは六七時間)であったこと、そして、本件破堤箇所における外水位の変化は図表Aのとおり(建設省において墨俣地点における水位をもとに本件破堤箇所の川積を考慮して推定した本件破堤箇所の推定水位である。もっとも、右の値は、国土研報告書及び《証拠省略》によって認められる本件破堤箇所の南方一〇〇メートル付近に存在する森部排水機場の運転日誌の記録と多少異なるが、大きな相違はなく、右記録の測定方法及びその厳密性が不明であるので、推定水位による。)であり、これによっても、墨俣水位観測所と同様破堤時まで四山のピークをもって水位が増減したこと、そのいずれのピークも本件破堤箇所の計画高水位一〇・六九メートルを下まわるものであったことが認められる。

また、《証拠省略》によれば、本件破堤箇所付近の内水位は図表Aのとおり変動したことが認められる。

六  本件洪水による被害とその経過

建設省報告書、国土研報告書、《証拠省略》に前記四、五で認定した事実を総合すると、以下の事実が認められる。

1  昭和五一年九月八日昼頃降り始めた雨は同日夜半になっても第一波の強雨となり、午後八時から翌九日午前四時までの降雨量は、八幡(但し、気象庁雨量観測所地点、以下同じ。)で二四七ミリメートル、岐阜で二七五ミリメートルを記録する等、長良川流域は山地部から平野部まで全域にわたり豪雨に見舞われた。このため長良川の水位は急激に上昇し、墨俣地点では、九日午前四時には水防団の出動準備の基準となる警戒水位八・二二メートルを上回り、その一時間後には水防団が出動すべき水位である出動水位九・二二メートル(量水標値五メートル)を越え、同日午前八時五〇分には第一の水位のピークに達し、最高水位一一・六三メートルを示して計画高水位(一二・一六メートル)にわずかに〇・五メートルと迫る大洪水となり、そのため、長良川の堤防は各所に法崩れ、漏水などが発生し、森部輪中内の内水位も同日午前八時三〇分頃四・一六メートルに上がり、森部輪中の排水ポンプが排水を開始した。この頃まで、本件破堤箇所付近の堤防には異常は認められなかったが、長良川右岸沿いの堤内地の各所にガマが噴出し始め、同日午後三時頃には薬師堂北側の民家の床下(堤防法先から七・八メートルの地点)及び同民家の南側の水田の二、三箇所にガマが発生した。

2  長良川の水位が出動水位まで減水した九日午後四時から翌一〇日午前〇時にかけて第二波の強雨があり、八幡で一二一ミリメートル、岐阜で五八ミリメートルの降雨量を記録したため、長良川の水位は墨俣地点で警戒水位を下回ることなく、再び上昇し、同日午前六時頃第二波のピークに達し、出動水位を上回る九・八〇メートルの水位を示した。右第二波の降雨、洪水により堤防には新たな法崩れ、漏水などが各所に発生したが、本件破堤箇所付近には異常は認められなかった。なお同日午後一時四〇分頃、長良川右岸沿いに発生したガマのうち三箇所について月の輪工法による応急措置が講じられたが、その他のガマは内水位が高いため処置できなかった。

第二波の洪水は、その後減水して一〇日午後二時には墨俣地点で警戒水位を下回り、更に減水したが、同日午後九時から水位は再び上昇し始めた。なおこの間も局所的な強雨があった。

3  翌一一日午前三時から同日午前一〇時にかけて第三波の強雨があり、八幡で一四四ミリメートル、岐阜で五六ミリメートルの降雨量を記録した。

このため水位は引続き上昇し、同日午後二時には第三のピークに達し、墨俣地点で計画高水位に迫る一一・三八メートルの水位となった。

長良川の堤防では、法崩れ、漏水が更に広範囲に発生し、このうち、岐阜市日置江、鏡島地先などでは特に危険な状態となり、懸命の水防作業が実施されたが、本件破堤箇所付近では、法崩れ、漏水など堤防の異常を示すものはなんら発生しなかった。

4  同日午後三時から第四波の強雨が翌一二日午前八時まで続き、八幡で三四〇ミリメートル、岐阜で二一六ミリメートルの降雨量を記録し、時間雨量三〇ないし四〇ミリメートルの降雨を伴うものであった。水位も墨俣地点で出動水位を大幅に上回る状態のまま再び上昇し始め、同日午前五時に第四の水位のピークとなり、計画高水位に迫る一一・三六メートルの水位となった。

右外水位の上昇に伴って、長良川右岸沿いのガマの活動も激化したが、これらについては、丸池上流五〇メートルの堤防法先の水路と畑の境の所に一箇所、右箇所から五〇ないし六〇メートル西の農道上に一箇所など常時ガマが発生する箇所以外にもガマが発生し、右箇所のガマは濁った水が噴いたことが特徴的であった。

長良川沿いの各所では、水防団、沿川住民、自衛隊による必死の水防活動が行なわれたが、本件破堤箇所付近においても、一一日午後一一時頃森部排水機場から三〇ないし五〇メートル上流(丸池南端から約五〇メートル下流)の堤防表法肩から表法面にかけて一箇所、同排水機場下流の堤防表法肩及び裏法肩に各一箇所の法崩れ(雨水の水みちとなってできるいわゆる雨裂)が発見され、杭打ち土のう積み工法により補強作業が行なわれた。更に、同月一二日午前二時頃、本件破堤箇所上流側にある道路標識付近の堤防表法肩に、幅二、三メートル、深さ約一・五メートルの水面下に達する法崩れ(雨裂)が発見され、小型ダンプ二台の山土を入れて埋め、ビニールを覆った上に杭打ち土のう積みをする応急修理がなされた(以上の四箇所の雨裂が発見され、応急修理がなされたことは、当事者間に争いがない。)。

5  そして、一二日午前一〇時二八分頃本件破堤が生じた。

6  本件降雨、洪水による被災状況は次のとおりである。

すなわち、木曽三川の直轄管理区間における堤防等河川管理施設の被災箇所は一五六箇所(木曽川八箇所、長良川七五箇所、揖斐川七三箇所)におよび、このうち被災の程度が高く破堤のおそれがあるため緊急に復旧工事をした箇所は本件破堤箇所を含めて長良川が三四箇所、揖斐川が一二箇所であって、被災箇所は長良川、揖斐川に集中しており、またその被災の度合いが高い緊急復旧工事は長良川に集中している。もっとも、これら被災箇所の内破堤にまで至ったものは本件以外にはなく、復旧工事等の水防活動等によって破堤を防ぐことができた。

長良川についての災害復旧事業が施工された箇所並びにその内緊急災害復旧事業が施工された箇所及びその内容は、図表Dのとおりであって、支流伊自良川に関するものを除いた緊急災害復旧事業が施工された箇所は、右岸が三箇所で他は左岸であり、本件破堤と同様に裏法崩れと思われる箇所は、図表Dの3、5、6の岐阜市茶屋新田、11の岐阜市今泉、12の穂積町別府の三箇所であり、特にその内茶屋新田の法崩れの原因については浸潤が進んだことによるものであるといわれている。その他の被災箇所の被災状況は表法崩れでその施工箇所は川表である。

かように認めることができる。

七  本件破堤の経過とその状況

建設省報告書、国土研報告書、新大報告書、《証拠省略》に前記四、五で認定した事実を総合すると、次の事実を認定することができる。

本件破堤箇所においては、長良川の水位は一二日午前五時頃第四のピークに達し、計画高水位(一〇・六九メートル)をわずかに下回る約一〇・三九メートルの水位を示した後、徐々に減水し始め、同日午前一〇時頃には約〇・五メートル減水して、約九・九二メートルとなった(破堤時の水位の点は当事者間に争いがない。)。また、前記図表Aのとおり、本件破堤箇所近くの羽島消防署の雨量観測結果によれば、同日午前四時から午前五時まで二三・五ミリメートル、午前六時から午前七時二〇分頃までの間に五五ミリメートルの降雨があり、その後降雨が止んだことが記録されていることからすれば、本件破堤箇所における降雨状況も右とほぼ同様の傾向を示したものと推認される。

同日午前六時三〇分頃、本件破堤箇所の堤防の裏小段に亀裂が発見された旨の通報が安八町役場にあり、直ちに現場に急行した水防団員が約一メートルの高さの雑草をかきわけて亀裂の状況を調査したところ、一条の亀裂は裏小段中央の西側寄りに走っており、堤防が丸池と接する区間の内上流側の部分では亀裂の幅は約二〇センチメートルあり、その部分で五〇センチメートルの落差を生じていたが、右亀裂は下流に行くに従って細くなり、遂には糸の筋のような状態になって終り、全体として南北約八〇メートルの長さ(丸池に対応する位置で、かつ、丸池の堤防縦断方向の幅とほぼ同じ長さ)で、もう一条の亀裂は裏小段法肩から少し下がった箇所に、南北二〇ないし三〇メートルの長さ(堤防が丸池と接する区間のうち上流側の位置)に走っており、その幅は大きい部分では前記の亀裂と同程度の幅と落差があった。

同日午前七時三〇分過頃、建設省中部地方建設局木曽川上流工事事務所長良川第二出張所長堀敏男、安八町建設課長坂博らが現場に到着し、亀裂の大きい部分を調査したところ、亀裂の深さは長さ二メートルのポールがほぼ入る状態であった。同人らの協議により亀裂の補修工法として押え盛土工法を実施することとなり、これを土木業者高田建設に依頼することが決定された。

同日午前七時五〇分頃亀裂の状態を知るため、坂建設課長の指示により草刈機を用いて、水防団員及び付近住民ら、最終的には約二〇〇人によって堤防裏法面の草刈が始められた。草刈は亀裂から法先の方へ五ないし六メートルの幅、七〇ないし八〇メートルの長さの範囲を約一時間かけて実施された(以上のとおり草刈が実施されたことは当事者間に争いがない。)。

この頃から、堤防では草の根の切れる音がしており、また丸池内に捨てられていた空缶が風もないのに鳴っており、これらの音は堤防まで続いた。亀裂は裏小段より上の裏法面に拡大し、裏小段全体が五〇ないし六〇センチメートル沈下した状態となっていた。

同日午前九時頃、草刈はほぼ終了し、引続き山土が到着した場合の準備作業を行なうこととなり、草刈が終了したところから杭打ちが始められた。杭打ちは、二・三ないし二・四メートルの杭を、裏小段下の亀裂から法先の方へ四メートル以上離れた法面に二列打つもので、四、五人が一組になって三〇キログラムのタコを使用してなされた(杭打ちが行なわれたことは当事者間に争いがない。)。堤防が丸池と接する区間の中央部より少し上流寄りの部分は、その他の部分に比べ、法面が軟らかく、杭打ちは早く進行した。この間も亀裂は拡大を続け、亀裂から下の法面は沈下し、裏小段から上の法面も徐々に天端の方に向って崩れて行った。同日午前一〇時頃には中央部付近の亀裂の中に徐々に濁り水が溜まってきており、約五〇センチメートルの深さに泡が見えていた。また、亀裂による崩れは二メートル以上に達していた。

裏小段全体も約一メートル沈下していたが、裏小段の表面は比較的固く、水が染み出てくる状況は認められなかった。

同日午前一〇時頃杭打ちが終ったところから杭に横木を添えて針金で連結する作業に入り、破堤まで続けられた(以上の作業が行なわれたことは当事者間に争いがない。)。

この頃、丸池の表面は、魚がいるようにゴボゴボと動いており、水の盛り上がりや渦巻きのような現象がみられた。裏小段から下の法面が少しずつ沈下していき、全体が平地のようになって小段がどこか分らない状態になり、中央部より少し上流側の部分で杭が下に流れるような現象がみられ、一直線に打たれた杭の列が丸池側に湾曲し、丸池の東側に堤防沿いに設置されていたトタン塀も同様丸池側に湾曲していた。しかし天端舗装面は沈下しておらず異常がなかった。

同日午前一〇時二八分頃、杭と横木を繋いでいた針金が連続的に切れ、犬走りから裏小段にかけて堤防法線と平行に地震のような揺れが起こり、法面全般に無数の亀裂がはいり、トタン塀がベキベキという音を立て、ザブンという水の跳びはねる音がし、トタン塀は丸池側に弓なりに曲り、その丸池側で水しぶきが上がった。以上のようにして堤防が丸池と接する区間のうち上流側で裏小段の付け根を上端とするすべりが発生し(第一次すべり)、崩落した土砂と共に同所で作業中の水防団員らも丸池方向へすべり落ち、その直後に天端表肩付近を上端とするすべりが発生し(第二次すべり)、天端舗装部分及び同所に駐車してあった消防自動車やトラックなども土砂の崩落と共に転落した(以上のうち、一次すべり、二次すべりが発生したこと、そのため水防団員や自動車が転落したことは当事者間に争いがない。)。

なお、破堤直前に亀裂の補修を行なうため依頼したブルドーザーが到着したが、破堤が始ったためそのまま引返して行った(この点は当事者間に争いがない。)。

土砂崩壊の後、表法面部分は断崖状となって残ったが、数分後、崩れかかった表法肩から河川水が少しずつ溢水し始め、やがて本格的な破堤へ進展し(以上の事実は当事者間に争いがない。)、トタン塀より西側の部分は土塊のままで流入水に押し流され、丸池の西寄り部分に止った。破堤口は次第に拡大して最終的には天端の高さのところで約八〇メートル(この点は当事者間に争いがない。)、地盤の高さのところで約五〇メートルとなった。

かように認めることができる。

第三河川管理の瑕疵の有無について《省略》

第四破堤原因

一  《省略》

二  浸潤線の位置について

1  本件においては、破堤前に長時間高い水位が継続しており、かつ、この間に堤体上に多量の降雨があったから、本件堤防では浸潤作用が相当進んでいたことは容易に推測されるところ、前記認定の事実によれば、九月一二日午前七時三〇分頃約二メートルのポールを亀裂に差し込んだところ、たやすく全体が入っていったこと、午前一〇時頃には裏小段全体が一メートル近く沈下していたところ、中央部付近の大きな亀裂の中には濁り水が泡とともにみえたこと、更には丸池に沿って杭を打った際、中央部上流寄り付近では数回打つだけでたやすく杭が打てたことが明らかであり、これらの事実を総合すると、裏小段の下あたりでは、かなり浅いところ(表面から二メートル以内の高さとも考えられる。)まで浸潤線が上昇していたものと推測できる。

この裏小段下付近の浸潤線の高さについては、本件両当事者もおおむねそのように主張し、建設省報告書の後記浸透流解析によれば、同地点における浸潤線は堤体表面より二メートル以内の高さまで上昇していたとの結果を得られたというのであり、鵜飼鑑定、松野鑑定意見書も右とほぼ同様の見解を採っているところであって、当裁判所の認定も右と同様であり、右認定を左右するに足りる証拠はない。

もっとも、浸潤線の上昇の原因と裏小段から裏法尻にかけての浸潤線の位置形状について、対立する見解が主張されているので判断する。

控訴人らは、浸潤した部分では土が軟弱化するところ、破堤時直前においても犬走りが固かったから、浸潤線は裏法尻付近で下降しており、裏法面にまで達していなかったとみるべきであり、そのような浸潤線の位置、形状になったのは、表小段付近は旧堤の天端に相当し、これより上は昭和改修によってかさ上げされた新堤部分であってその境界面には改修時のトロッコの線路敷とされバラストが撒かれた部分があり、この部分は透水係数が極めて大きく、本件洪水の水位が表小段を越えた時間中同所から堤体内に河川水が浸透し、浸潤線を押し上げたからであるとか、前記第二の六で認定したとおり本件破堤箇所の上流端付近の天端表肩に、破堤当日の午前二時頃雨裂が生じ崩落があったところ、この部分から河川水が堤体内に侵入したとか、これらの水や降雨の浸透水が堤体内の旧堤法面に沿って滞留したために、浸潤線が上昇したものであるとか主張し、鵜飼鑑定、松野証言には右主張に符合する内容がある。

なるほど、前記昭和改修の経過と地質調査報告書、原審における検証の結果を総合すると、本件堤体内には、旧堤が内包され、旧堤部分は表法面に開口していたこと、破堤後の堤防断面には、旧堤の天端の上にあたる部分にレキ混じり部分がみられたことが認められる。しかしながら、右レキ混じり層が松野が述べるように透水性が高いとの点については、松野が排水機場の改修の際に見たとの点はそれと本件堤防のものをにわかに同一に論ずることができるものか否か疑問があり、そもそも新堤築堤工事において、バラストを撒いたような事実を認めるに足りる証拠はなく、地質調査報告書、特に乙第六五号証によると、「レキ混じり部」は旧天端付近にのみあり、かつ、旧堤の堤体粘性土にめり込んで存在していることが認められるから、松野が推定するほど透水性が高いものではないと認められるし、また、本件破堤箇所の上流端付近の天端表肩に破堤当日の午前二時頃生じた崩落部分から侵入した河川水が右浸潤線上昇の原因であるとの点についても推測にすぎず、これを直ちに認めるに足りる証拠はないのであって、控訴人らの主張する浸潤線のような位置、形状となる原因は認め難い。

ところで、前記認定のとおり本件破堤時直前まで法面からの水の染み出しや法尻の軟弱化のような事実は確認されておらず、《証拠省略》には犬走りは固かったとの坂要の供述記載部分もあるが、同供述にいう固かった犬走りの位置は不明であり、これによって犬走りがすべて固かったとは断定することができない。そして、三木墨俣証言、三木意見書によれば、一般に、十分な浸潤時間を経過すれば、特に法尻部に透水性の低い層が存在するといった特殊条件がないかぎり、浸潤線は表法側から裏法尻にかけて緩やかに傾斜していくのが普通であると認められるところ、地質調査報告書によれば、新堤部分はほぼ均質なシルト質の砂質土で構成されていて、本件堤防法尻部分に透水性が低い層が存在するというようなことはないことが解るから、本件堤体内の浸潤線も表法面から緩やかな勾配となっていたと考えるのが合理的であること、かように解するとしても、堤体土の透水係数はそれほど大きなものではないから、浸潤線より下の法面に水が染み出すとしても、極めてゆっくり微量の水が染み出すだけであり、本件堤体が雨で濡れていたことを考慮すると、染み出しを発見できなかったと解するのが相当であって、本件破堤時直前まで法面からの水の染み出しや法尻の軟弱化のような事実が確認されていないことは、浸潤線の位置に関する前記認定を左右するものではない。

以上のとおり控訴人らの主張はいずれも採用し難い。

更に、国土研報告書及び国土研検討書には、本件堤体が丸池に接していたことが浸潤線の上昇を早めたものであるとの見解が述べられているが、三木意見書及び弁論の全趣旨によれば、平常時においては池の水位は地下水位と同等であり、池に接しているからといって地下水位より浸潤線が高くなるものではないことが認められるから、洪水時において丸池の水位の上昇が早かったとしても、丸池の水位は堤内側全体の内水位と比較してさほど高くはないと推測されるのであって、この点を取上げて浸潤線の上昇の原因を丸池の存在と関連付けるのは相当ではない。

2、3 《省略》

三  浸潤破堤について《省略》

四  本件破堤時の本件堤防の安定性について

1  以上によれば、浸潤に加えて更にすべりを助長するような他の要因が加わって本件破堤に至ったものと考えるのが相当であるところ、控訴人らは、本件破堤箇所の堤防は不適切な新堤築堤工事によってすべりを起こしやすい不安定な構造となっていたために、前記認定の程度の浸潤線の上昇によって、堤体の安定性が損われて破堤にまで至ったものであり、そうでないとしても、第二次的には、本件堤防がこのような不安定な構造を有していたために、堤防の基礎地盤に発達していたパイピング孔が本件洪水時に崩壊して堤体に不同沈下が生じたことが引金になって、一挙に安定性を失い破堤に至ったものであると主張する。

そこで、新堤築堤工事の結果、控訴人らが主張するような不安定な構造であったか否かについてまず判断する。

2《省略》

3  丸池の池底の形状について

控訴人らは、昭和改修においては、堤防の上から高撒き工法によって土砂を丸池内に撒き出したが、土留めをしなかったため、池の堤防側の傾斜は水中安息角である三二度、池底に近い辺りでは池底に堆積していたナメ泥と混合して二〇度の急な角度にしかなりえなかったし、その後の自然的、人為的な出来事がある度に、水際の土が次第に丸池内にすべって崩れ、本件破堤時には図表Qの1のように急な傾斜になっていて、本件堤防は比高差が大きく不安定であったし、右すべりによって堤体部分にまで変状が生じていたとの鵜飼鑑定、松野鑑定意見書、松野証言に依拠して、同旨の主張(以下「丸池原因説」ともいう。)をするので判断する。

(一) 丸池の池底の形状

地質調査報告書、五〇年航空写真、《証拠省略》を総合すると、前掲図表Eのとおり、昭和五〇年九月に撮影された航空写真によれば、その当時、本件堤防の犬走り部分から丸池中央部にかけて、天端裏肩から約三二メートルの位置あたりまで幅六メートル前後の範囲で葦が繁茂し、更に、前記葦の生育する部分の内側に接して南北の方向では北東の堤防沿い部分を除きほぼ丸池の幅一杯に、かつ、東西の方向では堤防沿いの部分に関しては幅約八メートル前後にわたり水生植物が繁茂していたことが判読でき、右植物はヒシであることが認められるところ、前掲各証拠によれば、葦は通常水際の地上部分あるいは水深二〇センチメートル程度の浅いところ、深くても一メートルまでの浅い池底などに生育するものであり、また、ヒシは、水面下から水面まで茎が伸びた後放射状に分枝し群生域を形成するので、葉がみられる範囲の限界部分の直下までが水深二メートル未満であるとは直ちにいえないものの、濃尾平野においてはヒシは通常水深一メートルより深く二メートルより浅い水深部分に生育するものであること、丸池の北東端部分には葦やヒシがみられないが、同所付近は上流から流れてきた排水が管で丸池へ流入するところであり、このような水の流れがあるようなところにはヒシが生育しにくいこと、以上の事実が認められるから、右葦の繁茂している部分は水深二〇センチメートルほど、深くても一メートル未満の深さ、ヒシのみられる部分の大部分は水深二メートル未満であり、葦やヒシがみられない丸池の北東端部分もほぼ同様であったと推認できる。

また、地質調査報告書によれば、本件破堤後の昭和五一年一二月に実施されたボーリング調査の結果からすると、丸池が堤防と接する東側の南端から約二〇メートル上流側で天端表肩から西方四五メートル(丸池水際から約一二メートル西方)の位置の地盤(図表Gの1及び3のボーリングナンバー⑪地点)には一・四四メートルの高さに新堤築堤の際に池に押し出されたと思われるシルト質細砂が洗掘されずに残っていることが認められるところ(図表Gの2参照)、前記のとおり丸池の平常水面高さは三・八メートルであるから、少なくとも右地点の水深は二・四メートル以下であったと推測され、この事実も、右水生植物の繁茂していた部分が水深二メートル未満の浅い部分であったことの裏付けとなる。

この点につき、《証拠省略》によれば、輪之内町の日比池及び道前池において行ったヒシの生育状態の調査を行なったところ、水深四メートル前後の深さのところにまで「ヒシ」が生育しており、茎の長さも五メートルほどあったこと、他にも同程度の水深部分でヒシが生育していたとの報告例があることが認められるが、《証拠省略》によれば、右両池に繁茂していたヒシは、戦後復員者によって中国から持ち込まれ、栽培されるようになったトウビシであって、丸池に生育していたわが国在来のヒシとは異なる種類のものであることが認められることに徴して、右調査結果をもって、丸池内のヒシの生育する範囲の水深が二メートル以上であったとはいえないし、ヒシが水深二メートル以上の池にも生えていたとの文献の記載は、山の中の池など特殊な条件の下であったか、又は単体として生育できる例を引き合いに出しているにすぎないから、丸池など濃尾平野において一般にみられるヒシの群生には当てはまらないし、ヒシの茎の長さと水深とは必ずしも結び付かないから、ヒシの生育しているところの水深をそのヒシの茎の長さと同程度であると推測することは相当ではない。《証拠判断省略》

また、葦は丸池の中に投棄されたゴミの上に生育しているとの松野証言は、単なる意見にすぎず、にわかにこれを採用することはできない。

次に、ヒシが生育していない丸池の中心部分の水深について判断するに、前記認定のヒシの生育限界からすれば同所は二メートルより深いと考えられるところ、その深さを直接に認定するに足りる証拠はない。

もっとも、新大報告書、鵜飼鑑定、地質調査報告書によれば、本件破堤後に排水した際現われた地盤面の状況は図表Gの3のとおりであって、これによると、7測線においては、ヒシの生育範囲と丸池中心部との境(同測線上ヒシの生育範囲の最西端)付近の高さはマイナス一メートル前後でそれより西方丸池の中心部に向っては浅くなっていることが認められるのであるから、仮に、右地盤面を丸池の底であると考えるならば(右地盤面は、本件洪水によって、池底表面部分が洗掘されてなくなっていて、池底面はもっと高かったとも考えられるし、池底面に本件洪水によって運ばれた土が上に堆積していて、池底面は更に低かったとも考えられるものである。)、丸池の平常水位三・八メートルを基にすると、池底の深さは五メートル前後であったこととなるし、また、図表Gの1、2のとおり、ボーリングナンバー⑫、⑬、⑮の地点の上部粘性土の上端は洗掘されて不明ではあるが、マイナス二・五七メートルからマイナス一・四三メートルの位置までは残存しており、同⑪の部分における上端はマイナス一・四一メートルであるから、これより西に向うにしたがって水深が浅くなることを考慮すれば、丸池の中心部の池底面の標高がマイナス一メートル前後で水深は五メートル前後とみられないわけではない。

この点について、《証拠省略》には、天端の裏法肩から西方五〇メートルの範囲の丸池の水深は八〇センチメートル以内であったとの記載があり、また、被控訴人は新堤築堤時に一七メートル位の平場を造った事実に照して右測量結果が正しい旨主張する。そして、《証拠省略》には、昭和四三年実測図の記載は実地に測量した結果に相違がないとの作成者の供述記載部分があるが、これによっても実測の具体的方法について判然としないし、新堤築堤時の平場の造成に関する関係者の供述記載部分である《証拠省略》に照してにわかに措信できず、被控訴人の右主張は採用できない。

国土研報告書、新大報告書、鵜飼鑑定、《証拠省略》には、丸池の水際から池底にかけての傾斜はかなり急勾配であったという部分があるが、前掲証拠に照してにわかに措信できない。

(二) 控訴人らは、丸池の堤防側の水際から池底にかけて法面の勾配が急であったため、堤体もしくは法尻にすべりが起きており、これによる変状がみられると主張する。

(1) 田の沈下について

《証拠省略》によれば、堤体法尻と丸池の水際までの間には、当初森部財産区が所有し後に安八町に移された土地があり、戦前から昭和四三年頃までは田として耕作されてきたこと、その広さは東西の幅約四ないし五メートルでその先丸池との境の幅五〇センチメートル位には葦が生えていたこと、三六年五月航空写真には田を区画していた道と思われる部分が白く写っており、右部分は黒く写っている水面とは異なる状態であり、地上に現われていたと判読することができるのに、三六年一〇月航空写真以後の写真には同部分が丸池の水面と同じく黒く写っていること、五〇年航空写真と比較検討すると田として耕作されていた部分はほぼ葦の生えている部分、すなわち、天端裏肩から約三一・五メートル程の位置に相当することが認められ、これと前記認定の事実、すなわち、昭和四三年測量の結果による丸池の水際は天端裏肩から二五・五メートルの位置であるということを総合すると、遅くとも既にこの頃、田の部分は大部分が水面下にあったこととなるのであって、以上のことからすれば、右部分は沈下したものと考えることができないではない。

しかしながら、三六年五月航空写真によれば同写真が撮影された時期は、比較的水位が低い時期であることが、同写真にみられる大江川、同川沿いに設けられた排水路の水の状態によって窺われるし、松野証言、《証拠省略》によると、三六年五月航空写真、五〇年航空写真によって判読したという堤防の断面は図表Fのとおりであるというのであって、これによると、三六年五月頃の丸池の水位は三・三〇メートルであるというのであるから、天端の標高を一二・六六メートルとして約一七センチメートル五〇年航空写真の判読結果より低くしていることを補正しても、五〇年航空写真の判読結果の丸池の水位三・七五センチメートルよりも約二八センチメートル低い結果となり、航空写真による高さの判読には誤差が生じるのが避けられないことを考慮しても、三六年五月航空写真撮影当時の丸池の水位は他の時期より低かったと考えられること(この点につき松野証言には、三六年五月航空写真の判読結果によれば丸池の水際部分の田の高さは三・七八メートルであり水面の高さとは四八センチメートルの差があったから、前記認定のように五〇年航空写真の際の水面が二八センチメートル高くなっていたとしても、田の部分が水面下になるはずはなく、水面下になっていることからすると、田の沈下、すべりがあったことは否定できないというが、三六年五月航空写真の田の部分には植生が存在していたのであるから、田の高さを三・七八メートルであるとした判読結果の正確性には疑問があり、この点は前記四三年測量の結果に照してもにわかに採用し難いのであって、松野見解は採用できない。)、また、昭和四七年六月に圃場整備事業のために測量された図によれば、本件堤防の堤内側丸池付近の田には標高三・八メートル以下のものもところどころにあったことが認められ、これらの部分が田としての耕作ができたことからすれば、本件堤防の法尻にあった田も昭和四三年測量当時の丸池の水位三・八メートル以下であったと推認でき、現に昭和四三年頃まで同部分を耕作していた《証拠省略》の坂隆治の供述記載部分によれば、同部分が他の田より低く水が入りやすかったことが認められること、これらの事情を総合すれば、必ずしも前記田の部分がすべったり、沈下したりしたと断定することはできない。

(2) 控訴人らは、昭和三六年六月二五日ないし二八日の洪水により本件堤防の丸池沿い上流側二五ないし三〇メートルの区間に対応する裏法小段のあたりが損傷を受け、補修工事がなされたことがあると主張し、《証拠省略》、中川鑑定意見書、中川証言において中川鮮は、三六年一〇月航空写真に裏小段の付け根に沿って長さ約二〇メートル、幅約一・五メートルの白い物体が池側で約一メートル立上がっており、また約二〇本の丸い棒状の物体(両者とも図表Hの2の⑯部分)も観察されるとし、この白い物体の上流側の位置まで車の轍の軌跡が到達し、その下流側では車が方向転換したと思われる屈曲部がみられるとし、このことからして、これは損傷の修復のために杭を一列に打ち、その川側にプラスチックのニット製の白っぽい土のうを置いたものと推測することができるとし、同様の白い物体(図表Hの2の⑰部分)が法尻付近にもあるとし、また、国土研報告書には、その頃補修工事があったとの住民からの聞取りをしたとの記載がある。

しかしながら、《証拠省略》によると、今村遼平は三六年一〇月航空写真を判読した結果として、同写真にみられる裏小段付け根に沿った白色帯(図表Hの2の⑯部分)の表面は整っておらず、ささくれた連続状のものであってブロック状のものではないし、同白色帯の側面の黒い部分は白色帯の陰と地表面への影であり、この部分には杭のようなものはみられないし、更に、堤防裏法尻部の白色帯(図表Hの2の⑰部分)についても土のうとみるより、白色帯が堤防法尻部にすりつくようにみえることからむしろ枯草か裸地と推定されるとの見解を述べている。

右今村の写真の判読結果に、三六年一〇月航空写真によって認められる以下の事実、すなわち、図表Hの2の⑯部分の白色帯から下流に向ってできている轍の跡とされるものが、補修工事の資材の運搬のために生じたものであるとするならば、他の一方は資材を供給できる地点まで通じていなければならないところ、右轍の跡は本件破堤箇所から下流側約一九〇メートルの地点でなんら資材供給地点となりうる地点に至らないままとぎれており、資材運搬のために生じたものとはみられないことを総合すると、右白色帯をもって、堤防に損傷や補修工事があったことの懲憑とすることはできない。《証拠省略》によれば、当時家畜の飼料にするため本件破堤箇所付近で草刈が行なわれていたと認められ、このことからすると、中川鮮が指摘するものは、むしろ刈った草を干し草として小積みにしたものと推認されるのである。

なお、昭和三六年六月洪水による堤防損傷の復旧に関する地元民の陳情書には、小規模の損傷についても記載されていることからして、詳細な調査の下に作成されたものと解されるにもかかわらず、右指摘箇所についての記載はなく、もとより、復旧工事を行なう建設省の記録「木曽川上流三六年発生三七年発生災害実施計画及び変更調査」にも当該箇所において復旧工事がなされたとの記載はないし、《証拠省略》によると、現実の水防活動にあたる地元民もそのような補修工事に従事したことはなかったことが解るから、前記国土研報告書の記載も措信できず、控訴人らが主張するような損傷はもちろん補修工事があったとは認められない。

(3) 堤体の変状について

控訴人らは、四三年航空写真からこの頃裏小段と犬走りの間で変状が生じたことが馬蹄形の植生の変化、法面の凹み(図表Hの1の②及び3の⑲、⑳部分)によって判読でき、五〇年航空写真によればこれが更に進んでいて、犬走りそのもの及び裏小段から犬走りに下る坂道が消滅したと主張し、中川鮮は中川鑑定意見書、中川証言、第二〇〇号証の一、二において図表Hの3の⑲、⑳部分の変状が四三年航空写真や五〇年航空写真から判読できるとし、松野は、《証拠省略》において、五〇年航空写真により図表Hの1の②部分の変状がみられる他、三六年五月、四〇年、四九年、五〇年の各航空写真によって、土砂の流出跡等によって、堤体にすべりが生じ、丸池沿いの堤体部分が順次丸池内に没し、欠けていった状態が確知できるとの見解を述べている。

しかしながら、四五年航空写真、《証拠省略》によれば、今村遼平は、図表Hの1の②の部分について、「②地点の小段の少し下に植生の低い部分があるが、草の丈の高いところも所々にある、地盤全体を直視できないところであり植生の低さイコール地盤の凹部とは判断できない。」とし、また、図表Hの3の⑲、⑳部分につき、四三年航空写真には植生の繁茂状況の差異はあるが、法面に中川の指摘するような植生の変化はみられず、五〇年航空写真の⑳部分も同様である、同写真の⑲部分も植生の凹部が直ちに地盤の凹部であるとは判断できないものであるとした上、除草された状態を撮影した昭和四五年撮影の航空写真により該当箇所の地盤にはなんらの変状はみられず、中川の指摘するような事実はないとの判読結果を述べており、これらの判読結果を参酌し、中川、松野、今村それぞれの写真判読の技術、経験を考慮し、四三年、四五年、五〇年各航空写真を子細に検討すると、これらの航空写真から中川、松野の指摘するような変状を読み取ることは困難であって、そのような変状の存在は認め難い。

次に、松野のその他の変状に関する指摘についても、《証拠省略》による同人の見解を参酌し、四〇年、四九年、五〇年各航空写真を検討すると、松野の指摘するような変状を読み取ることは困難であって、特に松野が裏小段から犬走りに下る坂道が消滅したとする点についていえば、昭和五〇年一二月ころに堤防の丸池沿いにトタン塀が設置された工事の状況を撮影した写真であることの明らかな《証拠省略》によれば、右工事の頃にも坂道が存在しており、形状が崩れていたような事実もないことが認められるのであるから、前記松野の見解は採用できない。

(4) 堤体の表法面の変状について

五〇年航空写真によれば、本件破堤箇所の上流付近に天端から表小段を通り法尻に下がる道様のものが認められるところ、《証拠省略》、松野証言には、右は堤体のすべりの跡であり、図表Hの1の③の部分には、すべりを補修したような兆候、すなわち窪地に二本の杭が打たれた状況がみられるとし、図表Hの1の⑬の部分には補修工事が行なわれたことによる道路中央の通行区分線の不規則な部分がみられる(同箇所付近には三六年五月航空写真に既にクラックの跡がみられた。)とし、図表Hの1の①の部分は右すべりによる損傷がないかどうかを調べるためになした草刈跡であるとする見解が述べられており、《証拠省略》にも同旨の見解が示されているので判断するに、《証拠省略》によれば、図表Hの1の③の部分には黒い物体が地面より上にあるのであって、凹みではなく松野らのいうような補修工事の跡や杭とみるのは困難であると認められ、図表Hの1の⑬の部分についてもすべりの補修工事の存在とにわかに関連付けることは困難である(三六年五月航空写真から、同写真に松野が指摘するようなクラックを確認するのは困難である。)。

また、図表Hの1の①の部分についての松野の見解は根拠に乏しく、にわかに採用できない。結局松野の指摘するようなすべりが発生していたと認めることはできない。

(5) そして、《証拠省略》によれば、破堤前においてなされていた平常時及び洪水時の河川の巡視及び定期的な芝刈りの際にも、堤体の法崩れなどの変状が発見されたような形跡のないことが認められる。

本件堤防の法勾配と丸池の池底の勾配については以上のとおりであると認められ、右認定の結果からすると、池底の勾配は本件堤防の裏法面よりはるかに緩く、本件堤防と丸池底の比高差が控訴人らが主張するように急であって、それ自体で不安定であったとは到底認められない。

4  丸池の池底の土質について

(一) 国土研報告書、新大報告書、鵜飼鑑定には、新堤築堤工事に際して、旧丸池池底に存在したいわゆるナメ泥を除去せず、その上に新堤腹付部分が乗る形になったため、旧堤裏法尻から池底にかけてナメ泥が極軟土層として存在することとなった、このことは図表Gの2のとおりボーリングナンバー⑪、⑮の地点に異臭を発するシルト質粘土層が存在することにより明らかであり、更にナメ泥は軟弱であって、水を含むとすべりやすくなり、堤体を不安定ならしめるものであったとの記載がある。

国土研報告書及び《証拠省略》によれば、丸池の底にはヘドロ状の泥が存在していたことが認められるところ、このことからすれば、旧丸池の池底にも、ヘドロ状の泥(控訴人ら主張のいわゆるナメ泥)が存していたと推認できるところ、前記認定によれば、新堤築堤工事の際旧丸池の一部を埋め立てるにあたり、このヘドロ状の泥を除去せず、そのまま埋立工事をしたことが認められ、地質調査報告書によれば、図表Gの2のとおりボーリングナンバー⑪の地点のマイナス一・四一メートルからマイナス三・三六メートルの間及び同⑮の地点のマイナス一・四三メートルからマイナス三・五八メートルの間に異臭を発するシルト質粘土層があることが認められる。

しかしながら、《証拠省略》によれば、旧丸池の池底にあったというナメ泥は土質工学上ヘドロといわれるものと考えられるところ、ヘドロとは、含水比が非常に高く、単位体積重量が非常に小さく、強度がほとんどないものをいうのであって、このようなものは、埋立工事の際、埋立土(砂質土)が池岸から池底傾斜面に沿って投下されたことにより、池の中央へ押し出されて行ったと考えられ、このようなヘドロ状の泥がその場に層状をなして残存していたとはにわかに考え難いこと、粘性土層が異臭を放つことは、沖積層という比較的若い地質には通常よくみられる性状で、地質学的には特段珍しいものではないこと、以上の事実が認められ、この事実と前記認定のヘドロの形状とを考え併せると、前記異臭を発するシルト質粘性土層は、丸池ができた後に徐々に堆積した比較的新しい地層であると考えるのが相当であって、新堤築堤当時に旧丸池底にあったナメ泥の層であるとは認め難い。

(二) 以上によれば、丸池池底部分の粘性土が、控訴人らが主張するようなナメ泥層とは認め難いが、控訴人らは右粘性土は軟弱であり、水を含むとすべりやすくなるというのであるから、これにつき更に検討するに、地質調査報告書によれば、本件破堤箇所についてボーリング調査をした結果、図表Gの2のとおり、本件堤防裏法尻付近直下に該当するボーリングナンバー⑪、⑬、⑮の各地点における上部粘性土(シルト質粘性土)の、その相対稠度は「極軟」もしくは「軟」、N値(後記のように土の固さの単位である。)は二もしくは三であることが認められ、右事実からすると、本件堤防の堤内側基礎地盤には、その表層にN値が二ないし三の上部粘性土(シルト質粘土層)が存在していたことが認められる。

しかしながら、地質調査報告書、三木意見書、三木安八証言、《証拠省略》によれば、N値とは、標準貫入試験により測定された土の強度を表わす単位であり、長さ八一センチメートル、外径五・一センチメートル、内径三・五センチメートルの円筒を三〇センチメートル貫入させるために必要な、六三・五キログラムの重さのハンマーを七五センチメートルの高さから落下させた回数をいうのであって、N値二の土ではその上で人が跳びはねても余り足跡がつかず、親指の貫入もかなり困難であり、N値三の土では親指の貫入さえ全く不可能となるのであって、相当の支持力を有しているものであること、一般に粘性土の硬軟を表わすのにN値によって六分類し、このうちN値が〇から二を便宜的に「極軟」と呼ぶものであって、地質調査報告書の相対稠度が「極軟」と言うのも同様に解すべきものであること、そして、濃尾平野のような沖積平野の地盤を構成する沖積層は、堆積の時代が新しいため団結度が弱く、N値は〇ないし五程度であり、N値が二ないし三の粘性土は、沖積平野に広く分布しているごく通常の固さの粘性土であること、因みに、地質調査報告書においてN値が三以下であるとされている上部粘性土は図表Gの2のとおりで、旧丸池池底に該当する部分以外にも広範に分布しており、N値が三以下である粘性土は旧丸池池底に該当する部分に特異なものとはいえないこと、また地質調査報告書で相対稠度が「極軟」と記述されている上部粘性土の部分は図表Gの2のとおりであり、この点も旧丸池池底に特異的なものではないこと、以上の事実が認められ、従って、地質調査報告書において相対稠度が「極軟」と記述されていることやN値が二ないし三であることをもって、軟弱地盤であるということはできない。

なお、河川砂防技術基準調査編において軟弱地盤調査を実施する必要のある地盤であるかどうかを判定する基準が定められており、右基準によれば、粘土地盤の場合、N値が三以下である地盤は軟弱地盤に該当するものとされていることが認められる。しかしながら、三木意見書によれば、右基準上軟弱地盤に該当するということは、必ずしも、当該地盤が堤防の安定に対し破堤につながるような著しい影響を与えるほど軟弱な地盤であることを意味するわけではなく、河川工事を実施する際に、もし必要であればその対策を講じるため、軟弱地盤調査を実施する必要がある地盤として指定することに意味があるにすぎず、それが堤防の安定に悪影響を及ぼす程度のものであるかどうかは軟弱地盤調査を待つ必要があると考えられる上、軟弱地盤の調査が必要とされるのは、軟弱地盤の存在が築堤中又は築堤直後において堤防のすべり又は沈下の原因となる場合があるからであり、築堤後堤防の重さによる軟弱層の圧密化が進んで堤防が安定した後においては、それが堤防の安定に悪影響を及ぼすことは少ないものと認められるから、築堤後五〇年近く経過した堤防の地盤のN値が二ないし三であるからといって右悪影響のある軟弱地盤であるとはいえない。

また、三木墨俣証言、《証拠省略》によれば、右粘性土層の一部は丸池の池水に接しており、平常時でも浸潤しているから、平常時に比較して洪水時にすべりやすくなるようなことはないし、一度固まったものが自然の状態でドロドロになるようなことはないと認められる。

なお、パイピングによる池水のボイリングの振動により粘性土が揺変現象により軟化したとの主張については、後記のとおり丸池内にパイピングがあったかどうかは疑問であり、仮にあったとしても、そのボイリングが揺変現象をもたらすようなものであったとの立証はなく、弁論の全趣旨によれば、かえってこのような現象は極めて稀であると認められるから、控訴人らのこの点に関する主張は採用できない。

5  旧堤との接合について

また、控訴人らは新堤築堤に際して、旧堤の段切り、草の除去が十分に行なわれず、更に、転圧が不十分であったため、堤防の旧堤との接合が十分でなく、その境界ですべりやすいという欠陥が生じたと主張するところ、右工事後の一、二年の間にそのような事態が生じたことは前記認定のとおりであるが、前記認定のとおり、その後右指摘の欠陥によるとみられるような変状が生じたとの事実は認められず、工事後五〇年近くの間、堤体自体の重さによる自然転圧がなされたことなどを考慮すると、前記の工事方法の不適切さが本件堤体の安定性に悪影響を及ぼしていたとは認め難い。

6  いわゆる丸池原因説について

いわゆる丸池原因説は、丸池を全部埋め立てず残したことが、本件破堤に関係があるとの主張であり、その骨子は以下のとおりである。

(一) 旧丸池の埋め立て方法からして、丸池の水面下の法面は水中安息角三二度、池底近くでは二〇度でしかありえず、自然的、人為的な出来事によって、経年的に水際に近い部分から堤体の部分までが丸池内にすべって欠けていき、破堤時には、法尻がほとんどなく、それより下の池の法面は急な傾斜となっていた。

(二) 旧丸池の底に堆積したナメ泥もしくは上部粘性土がすべり面となった。

(三) 簡易ヤンプー法もしくは簡易ビショップ法によって安全率を算出すると、本件破堤直前に一を割る結果が出、それ以前に丸池を埋め戻した場合には、はるかに安全率が高くなった。

というものである。

しかしながら、丸池の本件堤防側の池底部分への法面の状態は前記認定のとおりであり、本件堤防の法尻部分が経年的に欠けていったり、丸池の池の中の右法面が急であったとは到底認められない。また、基礎地盤内にナメ泥もしくは軟弱な地盤があってすべりやすかったとの点についても前記認定のとおり、いずれもそのようなことは認められない。なお、松野は、同証言において、破堤の状況からして、右上部粘性土層を境にしてすべったとしか考えられず、このことは上部粘性土層が地盤構造物の不連続点であったことからも同所ですべる必然性があったというが、本件破堤が右主張のようなものであると断定するまでの証拠はなく、構造物の不連続点がすべり面となるとの点については、一般論としてはともかく、本件において他のすべり面での安定計算をまたずして、これらすべり面の可能性をすべて否定できるものか否かについて疑問が多く、直ちに採用し難い。

鵜飼、松野は右(一)、(二)を前提として安定計算をしているのであるから、そのことからみても右安定計算の結果は採用し難いことが明らかであるが、松野の安定計算はそのような極めて不安定な法面を前提にする計算であるにもかかわらず、やっと安全率が一を割る程度であるというのであるから、前記認定の堤体法尻部分及び丸池の池の中の前記法面の状態の下では安全率が一をかなり上回ると推測されるのであって、丸池の埋め戻しの有無との比較を論ずるとしても安全率が一を割らない状態同士でのより安全な場合を比較するにすぎず、これを直ちに本件の破堤原因の探求と関係付けることはできない。

以上のように、丸池原因説は、採用できない。

五  パイピング破堤について

1~3 《省略》

4 アーチ作用及びパイピング孔の崩壊による安全率の低下について

(一)  山口証言、山口鑑定書には、一旦ガマが発生した後は、ガマに流れ込む地下水の流速はガマ部の流速と同じであるところ、その速さが土粒子を移動させるに足りる速度を持つ場合には、基礎地盤の透水性層中に川側に向ってパイピング孔ができるが、透水性層の土質いかんによっては、洪水が終っても一旦形成されたパイピング孔はアーチ作用によって崩壊することなく維持されるのであり、本件堤防の基礎地盤の透水性層の土にもアーチ作用が働き、パイピング孔は維持されるとの見解が述べられている。

この点に関して、被控訴人は、本件破堤箇所付近の基礎地盤内の透水性層(砂質土)では、アーチ作用が働かず、パイピング孔が安定的に存在することはありえないと主張し、三木安八証言には同旨の供述があるが、右については首肯しうる確たる根拠は見当らず、かえって、山口鑑定書、山口証言、《証拠省略》によって認められる次の事実、すなわち、本件破堤箇所より下流の長良川右岸堤防に沿った承水路にはパイピング孔と考えられる孔がみられるのであり、この事実からして、本件破堤箇所基礎地盤の透水性層の土が右パイピング孔のみられた土と同じくアーチ作用が期待できるものと直ちに断定はできないものの、だからといって、山口のアーチ作用に関する見解を無下に否定することはできない。

(二)  一般に、パイピング孔が崩壊し、その上の堤体土が沈下したような場合には、残留水圧が発生し、その部分のせん断抵抗を弱め、殊に堤防法尻部分が沈下した場合には堤体の安全率を低くする働きをなすことは十分に考えられ、また、山口補充書その二には、本件の場合、パイピング孔が裏法尻付近直下に進行してここで孔が崩れたときは、その強度が孔の崩壊前に較べて九〇パーセント減少して〇・一まで低下しないと堤体の安全率は一以下とならないが、パイピング孔が裏小段近くの直下にまで進行して同所で孔が崩れると、その強度が崩壊前に較べて五〇パーセント減少して〇・五まで低下しただけで安全率が一以下となるとの見解が述べられているところ、右証拠及び弁論の全趣旨によれば、右見解は、これに用いられた各係数が仮定、前堤に依存しており、これらの吟味が必ずしも十分でないことが解るから、その定量的な正確性についてはなお問題なしとしないが、その定性的な傾向については首肯しうる面があると解されるのである。

(三)  一般に、パイピング孔が堤体の下に発達し、これを崩壊し、しかもその規模が大きい場合には、堤体にはその崩壊による沈下などの変状が現われると考えられるところ、前記認定のとおり、本件破堤前には、本件堤防に変状は見当らなかった。

なお、《証拠省略》には、図表Pの検証地点④の箇所でガマが噴き、本件洪水前の昭和四八年頃、その東側堤防の法先に設けられた道路の擁壁が沈んだとの部分があり、控訴人らはこれは同所にパイピング孔が存在した証拠であると主張するが、右証言及び《証拠省略》によっても、右道路の沈下が右箇所のガマと関連があり、その下にパイピング孔があったものと認めるに足りない。

(四)  破堤状況について

浸潤法すべりであれば、非常にゆっくり法面が法尻から順次崩れるというすべりであるのに、本件の場合は、大きな土塊のまま一気にすべったことからして、浸潤のみを原因とするすべりではなく、本件法すべりの特徴からも堤体の地盤自体にすべりを生じさせる原因が他に存在したと考えるのには相当な理由があることは、前記認定説示のとおりである。

控訴人らは、裏小段付近に発生した亀裂はパイピング孔が崩壊し、その上の堤体が不同沈下ないし陥没したために生じたものであり、本件すべりには、地盤パイピングの特徴が表われていると主張する。

なるほど、山口補充書その二からすると、パイピング孔の崩壊によってその上の堤体に強度低下部分が生じるところ、法尻に近い部分は堤防の安定にとってはすべりに抵抗する働きをもつから、その部分の強度の低下は著しく安全率を小さくし(図表Oの1ないし4参照)、ことに本件のように浸潤が高度に進みそれ自体で安全率が低下しているような状態でこのようなことが起きれば、一気に安全率が一を割ることのあることが容易に推測できるのであるから、以上のことからみて、急激で、かつ、大きな崩壊であった本件法すべりは、パイピング破堤の形態により符合するといえよう。

また、前記認定のように、第一次すべりの直前に丸池内の水が波立ち、空缶が鳴り、その後すぐに第一次すべりが起きたことから考えると、丸池底あるいはその付近で、ガマの活動やパイピング孔の崩壊等があったと考えられないわけではない。

なお、前記認定事実によると、破堤時には多数の住民が裏法面、特に裏小段より下で本件堤防の補修にあたっていたが、上の方から落ちてきた土砂に当って丸池内に落ちた一名を除きほぼ全員が自力で上流や下流に逃げているところ、このことからすると、まとまった土塊が沈下し、すべったと考えることができるが(もっとも、破堤直後の写真に丸池の北側に設けられたトタン塀の南側に見えるまとまった土塊部分は、丸池東側に沿って造られていたトタン塀より丸池側部分が流水に押し流されたものと認めるのが相当であるから、右写真をもって法尻より上の土塊部分もまとまって落ちたことの根拠とすることはできない。)、前記認定のとおり、堤体土の土質の程度によっては、浸潤が進行していたとしても必ずしも常に軟弱になるわけではなく、まとまった土塊としてすべったことをもって、浸潤線の上昇の程度を否定できず、パイピング破堤であることの証拠とはなしえない。

更に、《証拠省略》によれば、図表Pの検証地点⑥の山田武男所有の田の付近は昭和四八年頃埋め立てられた旧薬師池の付近であるが、本件洪水時にはガマが発生し土を含んだ水が噴出したうえ、本件破堤と同じ頃、その東側の堤防の天端の中央より西寄りの位置に長さ五〇メートル以上の亀裂が入り、また裏法尻の道路の擁壁の一部が沈下し、これの補修工事がなされた事実が認められるところ、控訴人らは、これをもって、ガマから堤体下に延びるパイピング孔が崩壊して道路に損傷が生じた例であると主張するが、前記の道路の亀裂や擁壁の沈下がそのような原因によるものであることは、右証拠によっても認めるには十分でない。

5 以上のとおり、パイピング破堤であると断定することについては、パイピング孔につきその堤防の横断方向においても、また縦断方向にもその位置がまったく不明であり、それが単一かそれとも網状か、その大きさはいかほどかも、不明である点において難点があり、結局本件破堤がパイピングによる破堤であるとの積極的証明があったとみることはできない。

もっとも、前記認定説示によれば、丸池内から本件堤防にかけてその基礎地盤内にパイピング孔が全く存在しなかったとの立証もなく、パイピングの存在及びこれによる破堤の可能性はこれを否定できない。

三木意見書は、パイピング破堤であればパイピング孔に沿って堤防の横断方向に沈下、亀裂が生ずるはずであるとして、本件がパイピング破堤であることを否定できると主張するが、山口鑑定書によって、パイピングによる破堤の形態も法すべりであり、本件のように堤防を縦断する方向に亀裂が入ることも首肯できるから、右主張の点のみをもってパイピング破堤であることを否定できないのである。

六  破堤原因の結論

以上によれば、浸潤線が高い位置まで上昇して堤体を不安定にし、これが破堤の要因となったことは明らかであり、またその上昇の原因は、高い水位が長時間継続したこと、本件堤体上に多量の降雨があったこと、堤体の基礎地盤に旧丸池が押堀であったことに起因する難透水性層の不連続があったことによると考えられる。

そして、右浸潤のみによって破堤に至った可能性も否定できないが、同時にこれと競合してパイピング孔が存在し、これが崩落して堤体のせん断抵抗が弱化したため、浸潤線の上昇とあいまって破堤に至った可能性も否定できないのである。

また、新堤築堤工事に際して丸池の埋立て方法等が不適切であったことを原因として、堤体がすべりやすい構造を有していたとの点については、前記のとおりそのような事実は認められない。

第五河川管理の瑕疵について

一  前記認定の破堤の要因中、高い水位が長時間継続したこと、本件堤体上に多量の降雨があったことは自然的条件であり、このこと及びその程度からして直ちに河川管理の瑕疵がないといえないことや、反対に直ちに瑕疵があるとか、瑕疵が推定できるとかいえないものであることは、前記第三において述べたとおりであり、本件では、基礎地盤の難透水性層の不連続、パイピング孔の存在が、河川管理の瑕疵の存否の判断上、一応問題となりうるのである。

前記第三でみたように、このように堤体又は基礎地盤の土質構造等に問題がありうることは、堤防の持ついわば宿命であり、その拡がりや複雑性のため事前にこれらの存在による洪水の影響をすべて予測することは困難であって、堤防はこれらの点をも考慮して安全なように造られてはいない。かかる欠陥に対する河川管理は、平常時や洪水時の巡視等によって、その都度、堤体の損傷などその兆候を発見し、危険性を予測し、改修、補修により危険な状態を除去することによって行なわれているものであり、本件において河川管理の瑕疵があったというためには、危険が予測可能であって、更に回避可能であったか否か、更には危険回避措置をとらないことが財政的制約など河川管理の諸制約からみてやむをえないものであったか否か等の検討を要する。

二  危険性の予測可能性について

1  建設省報告書、三木意見書に弁論の全趣旨を総合すると、堤防に沿って押掘である帯水域が池として存在するような場合に、これを押堀であることから難透水性層が連続しておらず、その結果として浸潤線が高い位置まで上昇するようなことは、一般論としても、本件破堤以前には、河川管理者にも、河川工学、土質工学上も、これが問題とされたことはなく、本件破堤箇所についても、前記のとおりそのような兆候も以前には認められず、本件破堤原因の追跡、審究の過程において、模型実験や解析の結果初めて明らかになったものと認められる。

控訴人らは、押堀は他の箇所に比較して破堤の危険性が高いと一般的にいわれているというが、弁論の全趣旨によれば、その危険性はその跡に不用意に築堤しないようにするという性格のものにとどまり、難透水性層の不連続により浸潤線の上昇の度合いが大きくなり危険となるというようなことと関連付けていわれていなかったことが明らかである。

右認定説示によれば、丸池が押堀であることを認識し、又は認識しうべかりしであったからといって、浸潤線の上昇を予測できたものとは考え難く、河川管理者において、これに対して何等かの対処(例えば、川側からの浸透水を遮断するために、堤防に沿って堤外側に鋼矢板を打設するようなことが考えられるが、これが有効か否かは必ずしも明らかではない。)をすべきであったとはいえず、法律上の管理の瑕疵があったというのは困難である。

なお、建設省報告書、山口鑑定書によれば、建設省報告書、山口がそれぞれ設定した土質定数に基づいて解析し求めた最小危険円は、前記図表Jの3、Lの2ないし11のとおりであって、各円弧の下端は丸池にかかっていないか、丸池の浅い部分にしかかかっていない。このことからいえば、丸池の埋立をしても最小危険円はほとんど変らず破堤の可能性があるということができ、少なくとも丸池を埋めることにより安全率が大幅に改善されるようなものではないということができるのである。そうすると、難透水性層の不連続による浸潤線の上昇については、丸池の埋立は有効な対処の方法とはいえないから、丸池を埋め立てなかったことが管理の瑕疵に該当するとの控訴人らの主張は採用できない。

2(一)  控訴人らは、堤体及び丸池に種々の変状が生じており、本件堤防又は丸池内にパイピングが存在し、且つ、パイピングによる堤防の危険性の予測が十分可能であったと主張するが、丸池内のガマの存在については直接にも間接にもこれを認むべき証拠がないことは前記認定説示のとおりであり、航空写真の分析等によっても、主張の変状の存在が認められないこと、また、破堤前においてなされていた平常時及び洪水時の河川の巡視及び定期的な芝刈りの際にも、堤体の法崩れなどの変状が発見されたようなことはなかったことも前記認定説示のとおりである。従って、本件堤防の危険性が事前に認識可能であったとは認められない。

(二) このように、本件堤防が危険であることを示す変状は事前には認められなかったのであるが、すすんで、本件破堤箇所に、パイピング孔の存在を疑うべき相当な事情があったか否かについて検討する。

丸池が過去の破堤により形成された押堀であると認められることは、前記認定のとおりであり、識者によればパイピングの起きやすい箇所として押堀があげられていることが認められるが、本件における丸池が周辺の地盤と比べて、よりパイピングの起きやすい条件を備えていたとはいえないことは前記認定のとおりであるから、本件においては、丸池が押堀であることとパイピングの予測の可能性を結びつけることは相当ではない。控訴人らは、丸池がかかる意味で危険箇所であり、適切な対処をすることを陳情してきたというが、これを認めるに足りる証拠はない。

本件破堤箇所付近はガマの多発地帯であり、漏水の危険箇所として水防ランクCとして指定されていた(このことは当事者間に争いがない。)が、《証拠省略》によれば、本件破堤箇所上流における新幹線工事の際漏水が認められたことから、水防活動上注意する箇所として右のように指定されたにすぎず、パイピングの危険性を認識して行なわれたものではないと認められるのであって、このことからはパイピングによる堤防の弱化の可能性が具体的に予測できていたものということはできない。

また、《証拠省略》によれば、長良川の下流においてパイピングの発生についての調査研究がなされていたことが認められるが、同箇所はいわゆる海抜零メートル地帯で常時河川水位が堤内側の水位より高い地域についてのものであり、この調査から直ちに本件破堤箇所におけるパイピングの可能性を予測し対策を講ずるべきものであったとも到底いえない。

(三) 前記(二)のような認識状況において、パイピングの存在の可能性まで予測し、これを防止するに足りる河川の改修工事を行なうべきであるとは、前記の河川管理の方法、実態に照して到底いえないばかりか、前記河川管理の水準及びその制約に鑑みれば、そのような工事を行なわなかったことが河川管理の瑕疵に該当するとも、もとよりいえない。

控訴人らは、丸池の埋立てについては、財政的制約を考慮する必要がないというが、前記認定によれば、丸池が特に危険であるというわけではなく、本件破堤箇所を含む長良川右岸の中流部全体についてかかる工事をなすべきか否かの問題であるから、右主張は理由がない。

3  以上のとおりであって、本件破堤の要因であると認められる難透水性層の不連続、パイピングの存在の可能性をもって、河川管理の瑕疵があったということはできない。

第六結論

以上によれば、本件破堤につき被控訴人に河川管理の瑕疵があったとは認められないから、控訴人らの請求は理由がなく、これと同旨の原判決は相当であって、本件控訴は理由がない。よって、これをいずれも棄却し、民事訴訟法九五条、八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 海老塚和衛 裁判官 高橋爽一郎 裁判官 野田武明)

〈以下省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例